2012年3月21日水曜日

ラテライト


「ラテライト」とは
 カンボジアの大地はメコン川によって運搬されて沈殿した真赤な砂質土層からなる。この堆積土は長年月の強風化をうけ、高温・多湿・雨水のために非金属元素が分解し流失し、鉄とアルミニウムのような元素が水酸化や酸化物として残った結果、形成される。

2012年3月18日日曜日

書評「西欧が見たアンコール」

西欧が見たアンコール―水利都市アンコールの繁栄と没落 [単行本] ベルナール・P. グロリエ (著),  石澤 良昭 (翻訳), 中島 節子 (翻訳)

内容
世界の中で最も美しく最も清潔な都。アンコールワットは誇大妄想狂の王が自分の来世のために作ったものではない。都城は巧みな水路網と一つのシステムでつながり、時間と空間が秩序づけられていた。その体系は、クメールの人々の生の源泉であった。

単行本: 325ページ
出版社: 連合出版 (1997/11)
ISBN-10: 4897721350
ISBN-13: 978-4897721354
発売日: 1997/11
商品の寸法: 21 x 15.2 x 2.6 cm
書評
本書について
カンボジアの歴史といえば前アンコール時代、アンコール時代、フランス植民地時代区分となる。だが、アンコール朝崩壊直後からのポスト・アンコール時代についてはあまり知られていない。本書は、史料が不足し、空白であった歴史を埋めるものである。とはいいながら、16世紀~18世紀における史料は、ごく限られている。カンボジア側の史料として「王朝年代記」があるが、編纂された時代によって内容が異なっている。そこで、西欧側の史料、特に、イスパニア人やポルトガル人が残した報告書を校訂し、集大成したものが本書である。


本書を読んでいくにつれ、癖のある言い回しが煩わしくなり、著者が断定した事項がはっきりとせず、大変読みづらいことにイライラした。でも、その内容は、これまでのカンボジアの知識にはない、全く新鮮なものであり、大変、興味深かった。ポスト・アンコール期については、他の本で簡単に説明されている。しかし、本書を読むにつれ、その時代の重要な点は、いかに王位を奪い、そして他国の影響下、どのように国家を維持するかであることが判る。史料が西欧人の報告書によるものなので、情報が偏っているが、当時の社会情勢を明らかにしようとした著者の試みは、大変、意義のあるものだと思う。
また、アンコール遺跡については、16世紀中葉から西欧人による記録があるようだが、内容は概略的で、その本質を上手に伝えるものではないと感じた。それは、彼らの目的が、キリスト教伝道か、カンボジアの保護国化であったためであろう。
最後に、当時の社会を生きること自体が、命がけであったことがひしひしと伝わってきた。それは、カンボジア王側であり、また、伝道に来た西欧人側ものそうであった。船の難破による数多くの犠牲者、弾圧による監禁、民族の反乱などなど、自然の驚異や不安定な社会情勢に沿った生活が、当時のカンボジアの実情であったのかもしれない。


内容のまとめ
本書を読んで驚いたのが、1431年のアンコール都城放棄後、カンボジア王国は完全に衰退したとの印象が付きまとっていたが、その後も新たな王都を造営し、国内を平定、シャム軍を撃退していたことである。アン・チャン王は、アユタヤまで攻め入り、次のバロム・レアッチア一世はタイ・コーラット地方を占領した。そして、アンコール遺跡周辺に居城を構えていた。その息子サータ王は、アンコール遺跡の修復を施している。しかし、1594年に再びシャムによって王都が陥落し、これ以後、イスパニア、シャム、アンナンの影響下に入ってしまう。
カンボジアを訪れた西欧人の記録として最初のものは1555年であり、1583年から1589年にかけてアンコール遺跡を訪れている。

しかし、本書に記された内容は、国家というものを疑いたくなるものである。16世紀後半、ポルトガル人とイスパニア人の個人による政治介入を受けていたのには驚きだった。彼らは、王の従姉妹と結婚し、また、王から領土を与えられていた。そして何よりも、彼らの行動がバロム・レッチア二世を即位させていた。シャムの脅威に西欧の力を借りようとしたのだが、その弱身につけこまれた形になったようである。

それらとは、別に、日本人によるカンボジアでの活動が活発であったことは、新鮮な情報である。プノンペンに日本人街を形成し、中国人・インド人たちとともに、カンボジアの商業を行っていた。また、その動向が社会不安となり、西欧人虐殺へつながり、 それが西欧による王宮の介入が途絶えるきっかけとなっていた。また、アンコール・ワットを祇園精舎として参拝する日本人も記録されていることは大変興味深い。

以上のほかにも、数々の面白い事項が記載されており、新鮮な内容であった。

書評「インドシナ王国遍歴記」

インドシナ王国遍歴記―アンコール・ワット発見 (中公文庫BIBLIO) [文庫] 
アンリ ムオ (著)
内容
19世紀に初めてアンコール・ワットを詳細に報告、世界を驚嘆させた、フランスの探検家アンリ・ムオ。1858年よりシャム(現在のタイ)、カムボジァ、ラオスを巡って著した貴重な紀行。

文庫: 361ページ
出版社: 中央公論新社 (2002/02)
ISBN-10: 412203986X
ISBN-13: 978-4122039865
発売日: 2002/02
商品の寸法: 15 x 10.6 x 1.6 cm

書評

本書について
アンリ・ムオ(1826~1861)は、「ロンドン科学協会」により派遣され、1858年から1861年にかけてタイ・カンボジア・ベトナム・ラオスを調査探検したフランスの博物学者であり、西欧においてはアンコール遺跡を紹介したことで名高い人物である。ムオは、1858年4月27日ロンドンから乗船、同年9月12日にシャムに到着した。その後、バンコクを基点にして3年間各国を旅し、1861年ルワンプラバーンの近くで熱病にかかり、35歳の若さで亡くなった。

そのアンリ・ムオの旅行記は、旅行雑誌(Tour du Monde, 1863, Nos. 196-204)に9回にわたって連載された。本書の原本は、それを底本にFerdinand de Lanoyeがまとめ、(Voyage dans les Royaumes de Siam, de Cambodge, de Laos et autres parties centrales de l'Indochine, 1868)として出版したものである。大岩誠は、そのフランス語版本を翻訳し、「『シャム、カムボヂァ、ラオス諸王国遍歴記』 1942年、改造社」として出版した。そして、2002年に現代語表記に修正され、「インドシナ王国遍歴記」と題し、中公文庫BIBLO版として再出版されたのである。よって、本書の地名表記や訳注は、当時の実情のまま、残っている。

翻訳者の大岩誠(1900~1957)は、戦前、東南アジア・南アジアの独立運動の研究を行なっていた。日本がフランス領インドシナを統治した1941年~1945年まで、現地の情報を知ることは大変、意義のあることであった。他の訳本に「『印度支那 フランスの政策とその発展』1941」や「『カムボヂア民俗誌 クメール族の慣習』1944」がある。

内容について
アンリ・ムオについては、「アンコールの発見者」として知っていたので、アンコール遺跡を基軸に、大々的な表現で記されていると思っていた。よくある誇張された内容の書籍の場合、信用性の低いものあるので、流し読み程度で読み始めると、それは全くの誤りで、著者の観察眼の鋭さによる面白さに引込まれて何度も読み返してしまった。
また、アンコールについて、彼は「発見した!」とのような一番乗り的な感情は欠片もなく、ただ、彼の遺跡を見た時の純粋に感動をそのまま読者へ紹介したいという熱意が伝わってくるものであった。アンコール・ワットを最初に見たとき、彼は
「何気なく東の方に眼をやって、思わず驚歎の眼をみはってしまった。」
と、その最初の驚きを述べ、その芸術については、
「近づいて見た建物の細部の美しさ、仕上げの壮麗さなどはまた、遠くから眺めた見事な絵画的効果あるいは荘重な線の効果に優るとも決して劣るものではなかった。幻滅を感じるどころか、近づくにつれ心から驚歎と歓喜を感ずる。」
と、まさに現地を歩き見た感動を、そのまま表現している。
そして、彼はこの巨寺の規模と、雄弁に語る石を伝えるため、アンコールに3週間滞在して平面図とスケッチを行い、創建伝説・滅亡伝説などの情報を集め、その時代のカンボジアやシャムの王の対応なども記している。
彼のアンコールに対する記述は、その博識な表現とその情報収集の高さによって、そこに秘められた可能性を引き出して、魅力的に伝えていると思う。
確かに、彼よりも以前にアンコール遺跡を訪れ、報告した西欧人は、大勢いるが、それを伝えようとした熱意、表現能力は彼に及ばない。彼の旅行記が運良く雑誌「世界旅行」に掲載され、西欧社会に与えた影響は、「アンコールの再発見者」と位置づけされるものだと思う。

ところで、本書の内容のほとんどは、アンコール以外の部分で構成されている。彼の旅行の目的は、自然科学を究めることであり、未踏査であったインドシナの数々の山脈を超え、メコン川を中国国境まで遡ろうとしていたらしい。
彼は、シャム王やカンボジア王に謁見して、その慣習を伝え、また、過酷なジャングル生活を行い、そこの地勢や山岳民族の風俗を観察し、情報を収集して記録していった。本書の魅力は、当時のありのままの情勢を活き活きと伝えてくれることだと思う。

私が印象に残ったのが、当時の人々の生活、人柄がよく伝わってきたことである。高慢な役人の態度や、チャム人の反乱の時に役人のとった逃避などは、第三者の目線でないと正確には伝わらないことだと思う。また、カンボジア王との会談では、欧風の家具が備え付けられた王の私室で、「マルセイエーズ」を蓄音機で聴きながら、収集している骨董品を披露してもらった。その席で、王は唯一知る英語で「いいブランデーだ」と言って、ムオに勧めたそうである。王の人となりがわかって、大変、興味深い。

しかし、ムオの冒険にかける熱意には、本当に脱帽する。旅行中、彼の犬は虎や豹に襲われ、ジャングルで道を失ったときは野獣の襲撃をさけるため、咆哮が聞こえる中で樹上に潜んで一夜を明し、また、彼自身も9頭の象に襲われたりした。
脅威は、陸だけではなかった。暗闇の中、海上を船で進んでいるとき、岩礁にぶつかって船首が跳ね上がり、そこで寝ていた子供が投げ出されてしまった。なんと、その子は船をずっと追尾していた2頭のワニに食べられてしまった!当時のカンボジアは、本当に大自然と隣り合わせの生活であった。

ここまでして、ムオを探検に駆り立てたものはなんだったのだろうか。剥いだばかりの猿の皮や、荷造りをするばかりになった昆虫の分類箱などが散らかる中、彼は、
「土地の研究というものは、それを楽しむことを知る者にのみ許された喜びを持つものである。」
と述べ、さらに、現地の情勢をありのままの姿を紹介し、言い伝えを記載して、今後の探検家の道しるべとなることを希望していた。

過酷な大自然の道程の中であっても、その美しさに感動できる心情。社会の矛盾を的確に見抜く眼力、新種の貝の発見や、芸術的な価値を評価できる博物学的な視点は、読者をのめり込ませる魅力だと思う。
本書の読みどころは、アンコール遺跡もそうだが、当時の都市の人々の様子や、少数民族の慣習などを知ることができる点だと思う。


2012年3月11日日曜日

アンリ・ムオ

アンリ・ムオについて、「『史学』第四十一巻 第二号、木村宗吉著、1968年」に詳しく紹介さている。ここでは、それを一部編集して掲載する。

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1、
アンリ・ムオ(1826~1861)は、1858年から1861年にかけてタイ・カンボジア・ベトナム・ラオスを調査探検したフランスの博物学者であり、アンコール遺跡を西欧へ紹介したことで名高い人物である。
アンリ・ムオ(Alexandre Henri Mouhot)は、1826年5月15日、フランスのドゥー県(Doubs)モンベリアル(Montbéliard)で生まれた。18歳のときロシアへ行き、フランス語の家庭教師をしたり、陸軍士官学校でフランス語を教えたりしたが、休暇を利用してポーランドやクリミア半島へ旅行した。1854年、フランスへ帰った。クリミア戦争が起り、フランスとロシアの関係が悪化した年である。1856年、渡英して結婚。妻はアフリカ探検家として有名なMungo Parkの一族であり、ムオはParkと縁つづきになったことを名誉としたようである。ムオは1858年4月27日ロンドンから乗船、4ヶ月半を経て、9月12日チャオプラヤー川の河口にあるパークナムに到着した。ラーマ4世治下のタイ国である。「パークナムは、シャム王にとってセヴァストポリ要塞やクロンスタット要塞にあたる。けれども、ヨーロッパの一艦隊なら簡単にパークナムを制圧し、パークナムで朝食をとった艦隊司令官は、その日の夕飯をバンコクでとるであろう、と私は空想した。」彼はこう書いている。
ムオは以後、1861年ルワンプラバーン(LuangPhrabang)の近くで死ぬまでの3年間、バンコクを基地として、4つの旅行をおこなっている。
第1回目は、1858年10月から12月まで。チャオプラヤー川を小舟でさかのぼり、5日をついやしてアユタヤに行く。また、プラプッタバートやサラブリー(Saraburi)を訪れ、12月バンコクへ帰る。
第2回目は、1858年12月末から1860年4月まで。主としてカンボジア旅行。ムオはバンコクで漁船に乗り、1859年1月4日、チャンタブリーに着く。彼は小舟を買って付近の島々を訪ねたり、チャンタブリー(Chanthaburi)の近くの野山を歩いたりして約3ヶ月を費やす。その後、海路カンボジアのカンポットに行く。そこから、陸路、旅を続けて当時の首都ウドンに至った。ついで、ウドンに近いピニャール(Vihear Luong)に行き、7月の大半をそこで宣教師とともに過ごす。ムオは東北カンボジアのスティエン族を調査するため、プノンペンに出て必要な品物を整えてから、コンポン・チャム付近までメコン川をさかのぼる。そこから東へ向って陸路困難な旅を続け、8月の中頃、目的地であるベトナムのブレルム(BinhLong)に到着する。ブレルムは宣教師の前哨基地ともいうべき所、彼は宣教師の客としてそこに3ヶ月半滞在してスティエン族の観察を続け、彼らの衣・食・住・農耕・結婚・葬式・祭り・信仰などについて興味ある記述を残している。1859年11月末ブレルムをたち、クリスマスの数日前、プノンペンに帰ってくる。そこから北上、トンレサップ川を船で渡る。「湖水のまんなかに高い棒杭が立っており、それがシャム王国とカンボジア王国の境界を示している。」と、彼は書いている。ムオは、1860年1月バッタンバンの一宣教師の案内で、アンコールに行き、そこに3週間滞在してアンコール・ワットやアンコール・トムなどの遺跡を調査、3月5日バッタンバンをたち、4月4日無事15ヶ月にわたる旅を終えてバンコクに帰って来る。
第3回目は、1860年5月から8月まで。ペチャブリー(Phetchaburi)の山中で過ごす。バンコクに帰ってからラオスへの旅を準備する。
第4回目にして最後の旅は、1860年秋から1861年11月まで。秋バンコクを出発して翌1861年2月末、チャイヤプール(Chaiyaphum)まで進むが、旅に必要な象や牛が得られず、やむ得ずバンコクは引き返す。バンコクに半月ほどいて再び出発。7月25日、陸路ルワンプラバーンへ到着する。ムオは彼の生涯の最後の3ヶ月、すなわち1861年8月・9月・10月をルワンプラバーンに近い山や村で過ごす。彼はルワンプラバーンに帰る途中、10月19日、熱病にかかる。「十月二十九日、『おお神よ。余を憐れみたまえ!』」これが、彼の最後の記録になる。それから12日後の11月10日、永眠する。享年35.彼の遺品、つまり、日記の原稿や採集品などは、彼がプライとデンと呼んだ二人の忠実な従者によって3ヶ月後バンコクは持ち帰られる。こうしてムオの日記は、森の中に埋もれることなくヨーロッパに伝わり、まもなく整理出版されて西欧世界の注目の的となる。

2、
ムオの日記には、従来、3つのバージョンがあった。以下、刊行の年代順に列挙する。
(1)The French magazine version (Tour du Monde, 1863, Nos. 196-204).
これは、ムオの死後2年目の1863年、Hachette社が出版する。Tour du Monde誌上に雑誌用に編集されて9回にわたって連載されたもの。最終回の204号の末尾に、F. de L. という編集者のかしら文字あり。
(2)The English book version (Travels in the Central Parts of Indo-china (Siam), Cambodia, and Laos, 2vols, 1864), 
この英語版は、イギリスの the Royal Geografical Societyの斡旋で、同協会所属の出版社Jhon Murrayによって出版されたもの。ムオ自筆の原稿に基づいて編集されており、気象学上の記録、民話、カンボジア語の語彙、博物学上の新発見物の表などを含む。
(3)The French book version (Voyage dans les Royaumes de Siam, de Cambodge, de Laos et autres parties centrales de l'Indochine, 1868).
これは(1)を底本として、Hachette社が1868年に出版したもの。編集者は、Ferdinand de Lanoye。前述のように、Tour du Monde誌の最終回の末尾には F. de L. というかしら文字あり、従って(1)と(3)は同一人の編集になる。昭和17年改造社が出版したアンリ・ムオ著大岩誠訳「タイ・カンボヂァ・ラオス諸王国遍歴記」は(3)の全訳である。
ムオ自筆の原稿は現在ムオ家にあり、Christopher Pymhaは同家の好意により原稿を実見し、それと(2)の英語版と比較して、(2)が最も信頼できるバージョンとされる。

3、
ムオの墓碑は彼の遺体が埋葬された地に1867年に建てられた。前記の(3)の版によると、Doudart de Lagréeは1897年5月24日、次のような文を「欧州」紙に寄せている。
「・・・・彼の死体はルアン・プラバーンから三キロのナム・カン河畔、ナパオの町に近いところに埋葬されている。私は氏の墓側に我々の尊敬を表明し、氏のこの国に於ける思い出を記念するためにささやかな記念碑の建設をラオス当局に願い出た。ラオス王はこの願いを心から喜びをもって許可し、その上記念碑に要する材料一切の提供までも申し出てくれた。私はド・ラポルト氏にその建設を依頼したが、それは長さ一メートル八十センチ、高さ一メートル十センチ、幅八十センチの煉瓦建になる筈である。その一面に嵌められた石にはアンリ・ムオ氏の名と、一八六七年の文字が刻まれることになっている。ド・ラポルト氏は下図を描かれたが、これはド・ラポルト氏の名前によってムオ氏の家族に贈られる筈になっている。」
現在の墓碑は、1887年にAuguste Pavieが建てたものである。 Henri Deydierは、ムオの墓石はBan Phanomにありと言い(Henri Deydier, Introduction a la Connaisseance de Laos, p.125)、近年ここを訪れたPymhaは、墓へ行く道はメコン川の支流のナム・カン川(Nam Khan)に沿っており、Ba Peunomから来た村人にきいたら墓の所在はすぐ判明、墓は、道と川との中間部の森の中の空地にあった、と言う。
Deydierによると1951年にフランス極東学院の斡旋で修理されたというこの墓碑は、山の斜面の藪の中にあり、基部はかなり土中に没して荒廃が甚だしい。前面に嵌められて石板には、次のような文字が刻まれている。
H. MOUHOT Naturaliste 1829-1867
これによると、ムオの生年と没年は1829年ー1867年である。しかし、ムオの生年は諸本の示すところによると、1826年である。一方、ムオの没年は1861年である。それが1867年と刻まれた原因について、Pymhaは最初墓を建てたDoudart de Lagréeは、’H. MOUHOT-Mai 1867'と墓の建設年を刻み、1883年に第二の墓を建てたDr.Meisは1887年をムオの没年とし、1887年に第三の墓を建てたPavieがこれを受け継いだ、と説明している。墓碑の裏面にも石板が嵌められており、文字はかなり磨滅しているが、次のようなものである。

DOUDART DE LAGREE
Fit elever ce tombeau
en 1867
ー - ー
PAVIE
le reconstruisit 
en1887


書評「アンコール・ワット 大伽藍と文明の謎」

アンコール・ワット―大伽藍と文明の謎 (講談社現代新書) [新書]
石沢 良昭 (著) 




内容
インドシナ半島の中央に次々と巨大な寺院を完成させたアンコール王朝。建造に費した年月は。回廊に描かれた物語とは。なぜ密林に埋もれたのか。遺跡研究の第一人者がカンボジア史を辿りながら東南アジア最大の謎に迫る。

著者紹介
1937年、北海道生まれ。1959年、上智大学外国語学部卒業。現在、上智大学外国語学部長。専攻は古クメール語碑刻文学。主な著書に『古代カンボジア史研究』―国書刊行会、『甦る文化遺産――アンコール・ワット』―日本テレビ出版部―などがある。


新書: 215ページ
出版社: 講談社 (1996/03)
ISBN-10: 4061492950
ISBN-13: 978-4061492950
発売日: 1996/03
商品の寸法: 17.4 x 10.4 x 1.2 cm




書評
本書は、著者の碑刻文研究の成果を基に、前アンコール時代から、フランス植民地時代のアンコール研究に至るまでの社会を、人々の動的な描写によって、わかりやすく解説しているものである。

しかし、本書の最大の特色は、当時の人々の様子をいきいきと写し出していることである。
例えば、寺院の浮き彫りには王宮や都城周辺の生活が描かれており、そこで民族衣装をつけた人々が働いている姿を解説している。また、寺院の建設では、浮き彫りおよび遺跡に残された痕から、石切場や石積み様子などを描写している。
また、チャンパとの戦争について、史実に肉付けする形で、寺院の戦闘場面の浮き彫りを臨場感溢れる描写しており、解りやすい構成となっている。
そして、アンコール・ワットの浮き彫りでは、その宗教・技術の頂点の根拠のみならず、それを描いた人々の生活光景を読み解くことを教えてくれている。そのひとつとして、ジャンク船や家族の描写がある。
それらは、著者の長年の研究の考察結果をわかりやすく示しているものである。
最後に、王の崇敬については、シハヌーク前国王の行幸を採り上げ、伝統的な王への姿勢から、読者にアンコール時代の王を想像させ、とても受け入れやすい内容になっている。

本書を遺跡を訪れる前に読むことにより、その場で当時の風景を想像する面白みを感じることできると思う。


内容のまとめ
本書は、タイトルにある「大伽藍と文明の謎」を解明しようとするものである。換言すれば、アンコール文明を構成していた政治・社会・経済を考察し、社会基盤整備及び寺院建立を可能にした「高度な技術」及び「宗教的背景」を通史の形で明らかにしたものである。そして著者は、専門である碑刻文などの文献と、アンコール地方の地勢から、その根拠を示している。

政治・社会・宗教からの寺院建立
アンコール時代の王は、王位継承戦により実力で登位していた。その正当性を誇示するため、初代王が転輪聖王の儀式を行なったアンコールに都城を築いた。つまり、アンコール地域は王権の永続性を保証する聖地であった。
また、当時の政治は、インドからもたらされた概念を基底にして、宗教的な要素が強かった。王は、王国の発展と平安を保証するという精神から、「神の世界」と同じ中心寺院を地上に築いた。そのことにより、アンコール地域に多く寺院が建立さていったのである。そして、王自身は「現人神」として王国の卓越した保護者として神聖化された。
それらを継承することが、王位の正当性を主張することでもあった。そのための祭儀を執り行ったのが王師職である。この宗務官は、インドから渡来した人々バラモンと称したもので、世襲色・寡頭色が強い職柄であった。また、王は、前任王の親族と形式的に婚姻することにより王位継承の正当性を主張したのであった。
以上のように、アンコール王朝は政祭一致的な色彩の強い政治体制であった。

農業経済を支えた社会基盤整備と寺院建立
王は、各寺院にて五穀豊穣の祭儀も行なっていた。アンコール地方は、常に水がなければ耕作ができない地勢であった。また、雨水は短期間に過剰に降り、それをどのように排水し、乾季に備えてどのように貯水するかが課題であった。その実現のため大貯水池バライを建造し、集約的農業を可能にした。
つまり、王による都城と寺院の造営はその地域の守護神的役割を果たすという精神面と同時に、地域開発の側面を併せ持ち、農業生産の増加を生み出した。
また、その緻密に計算された水利灌漑網を維持管理していたのは、「村の地主」であり、彼らが水門の調節や河川の浚渫を行なっていた。彼らによって支えていた豊かな農業経済を背景に、アンコール時代の王朝の発展と、壮大な寺院の建立が可能となっていた。
しかし、その経済的繁栄を支ていた水利網の維持は長期的には困難であった。高低差のないアンコール地域では、流速がゆっくりのため沈殿堆積作用により、機能しなくなった。また、新しい水路・貯水池の開削は、飽和状態の耕作地利用のため、不可能であった。そして、水路網が機能しなくなると、土壌の酸性化が進み、田地は荒蕪化してしまった。そのことが、アンコール王朝の衰退の要因のひとつとなった。