2012年11月26日月曜日

カンボジアと日本人


0章はじめに 
 近年、カンボジアへ旅行に行く日本人は増加傾向にある。内戦終結後、安定手的な経済発展とともに、観光地として環境整備されてきたためであり、また、人的交流もさかんになりつつある。私たちがカンボジアを訪れる2013年は、プノンペンに初めて日系ショッピングモールができるなど、日系資本の本格参入の年とされている。では、このようなカンボジアで日本との関係はいつどのように始まったのだろうか。今回は、日本人を通してみたカンボジアについてまとめてみる。なお、時代をいくつかまたぐので、中世、近代、現代(独立後)、現代(和平後)にわけた通史とする。

1章 中世
1.はじめに
 16世紀、カンボジアには、政治都市プノンペンと貿易都市ピニャールーの二都市に日本人街が形成されていた。ここでは、胡椒などを求めて朱印船貿易が活発であった。残念ながら、それらの痕跡は、全く残っていない。
 一方、16世紀のスペインとポルトガルの宣教師による史料に、カンボジアで日本人の記録がでてくる。この時代、カンボジアにおいても、カトリックの布教が試みられており、最初に入国した宣教師は、1555年に訪れたポルトガル人ドミニコ会士ガスパール・ダ・クルスとされる。その後、多くの宣教師、商人、征服者がカンボジアに入り、様々な活動を行った。それらに伴って、その背後で影響を与えていた日本人について記録をみることができる。

2.交易と日本人
 16世紀末、カンボジアの輸出品は、米、畜肉、魚、皮革、象牙、蝋と漆であった。輸入品は、織り糸、特に絹、朱砂、硫黄、水銀、銅、鉛と磁器などであった。王は、これらの商取引を統制していたが、取引そのものは全面的に中国人の手中にあり、それにプノンペン近辺に居住していた日本人がかかわっていた。

3.宣教師と日本人
 最初に記録がでてくるのが、1584年、マラッカのドミニコ会に所属するダゼベド神父によるものである。当時、カンボジアにおいて、宣教師は迫害を受けていた。カンボジア人は改宗する必要を感じておらず、また、僧侶による反発も大きかった。そのため、彼の小さな教会の信者はチャム人、日本人、ポルトガル商人など外国人ばかりだった。
 他方、日本人は積極的にカトリックへ改宗したわけではなかった。それを物語るのが、1600年前後に起きた宣教師の殺害である。カンボジアで活動した最後のマラッカのドミニコ会の宣教師グループに入るデ・フォンセカ神父は、ミサをあげているとき某日本人によって殺害された。理由は、その日本人の妻を改宗されたからであった。でも、これは致し方ない。

4.スペインによるカンボジア侵略と日本人
 16世紀末、弱体化したカンボジア王国は、西洋人よる個人的な介入を受けていた。個人的とは、国家や宗教などの組織的な支援なくして、カンボジア王国へ政治的な介入を行っていたことを意味する。ポルトガル人ベロソとスペイン人ブラス・ルイスである。彼らは、カンボジア王が宣教師を商取引に利用したのと同様に、今度は、マラッカの政治的支援を得る交渉に利用するために、親衛隊として、サータ王の身近に置かれた。
 1594年、シャムがカンボジアを攻略し、それに乗じて起こったクーデターによって、サータ王は失脚した。ベロソとルイスは、サータ王の王位奪還のため、スペイン領マニラにカンボジア遠征を要請した。そして、フィリピン臨時総督ルイス・ペレス・ダスマリナスの決断により、1596年ファン・クスアレス・ガリィナト将軍のカンボジア遠征が行われた。しかし、その遠征は失敗に終わり、その年の7月にプノンペンを離れた。
 その帰路、事件は起きた。ベロソとルイスは、ガリィナト将軍を説得し、ベトナムに立ち寄って、接収された大型船の返却を求めさせた。ガリィナト将軍は、ベトナム側のグエン=ホアンに使者を出し、カン・トリーに停泊した。グエン=ホアンは、その内容に腹を立て、スペイン人をその場で攻撃せよと厳命した。その命令が届いた、93日、その旅の途中で立ち寄った日本人とカスティーリャ(スペイン)の水夫たちの間で殴り合いのもめごとが起きた。ベトナム人と日本人は組んでガリィナト艦隊を襲撃しようと企てたが、裏をかかれて失敗に終わった。翌94日、スペイン人たちは、あわてて出港し、マニラに帰還した。
 ここに記されていることを要約すると、カンボジア遠征に失敗したスペイン船は、居合わせた日本人との揉め事に起因する襲撃を避けるため、たまたま出港し、ベトナムによる攻撃をさけられたのである。

5.地方長官となった征服者と日本人
 サータ王の死後、ベロソとルイスはその息子のバロム・レアッチア二世を王位に就かすことに成功した。その見返りとして、白人でありながら、1598年、二人はバプノム地方とトレアン地方を与えられ、プーサット、コンポン・スヴァイ、トゥバウン・クムなどの地方から税収入を個人で享受していた。国家が外国人個人に対して、領土を分割したようなものである。
 この少し後の1599年、1隻の日本船がプノンペンに着いた。なぜか、指揮を執っていたのはスペイン・ポストガル混血のゴーベアであった。船上には、軍人で冒険家のアントニオ・マラベールの姿があった。マラベールは、1596年にフィリピンからヌエバ・エスパルタへ向け出発したが、乗っていたガリオン船「サン・フェリペ」が日本沿岸で沈没し、長崎で暮らしていた。その長崎で、シャムへ行くというゴーベアに出会い、その途中、ベロソに会いにやってきたのである。そして、マラベールは、ベロソと組んで一旗あげる可能性を試そうとした。
 1599年、ベロソとルイスはスペインなどの支援のもと、カンボジア王バロム・レアッチア二世と正式な保護条約交渉に入った。しかし、それにより王の一族や高官たちの反感を招き、緊張が高まった。その時、スペイン人たちは、小部隊と民間人ともにプノンペン近郊の中国、日本、マレーなどの外国人居留地に隣接した臨時野営地に陣取っていた。ベロソとルイスがスレイ・サントー都城で王と交渉していたとき、ルイス・オルティス少尉とラクサマナの部下のマレー人との間で暴力事件が起きた。留守を守る臨時野営地の指揮官ビリャファーニェは、負傷した同胞をかばい、長崎から来たゴーベアと日本人たちの支援でマレー人駐屯地を包囲した。急を知らされたラクサマナは、部隊を召集し、カンボジア人をあおり立てて、スペイン人をその野営地と船に閉じ込めてしまった。ベロソとルイスは、王の忠告を無視し、仲間の救出に向かい、結局仲間と一緒に非業の死を遂げた。この闘いで西欧人はほとんど殺されてしまった。
 このプノンペンの惨殺によって、これ以後、スペインによる支配の終焉を意味していた。また、その過程で、日本人が関係していたのだった。

6、日本人の聖地「アンコール・ワット」
 水戸の彰考館には、「祇園精舎」と題するアンコール・ワットの平面図が所蔵されている。この絵図面の研究は伊東博士によって紹介された。大きさは縦68.45cm、横75cm の紙に描かれ、建築物を墨で表わし、水には青、彫像には黄などの色を施した立派な絵図面である。この絵図面には、「アンコール・ワットの十字回廊に4千体の金彩色仏があると記されている。これは、カンボジア人がプリヤ・ポアン、つまり千体仏と呼んでいるところに違いない。その絵図面には、「此君堂蔵本」の印が押されている。此君堂とは立原翠軒のことであり、彼は後に彰考館の総裁となり、文政6年(1823 年)3 14 日、80 歳の高齢で没した。藤原忠奇がこの絵図面の裏側に裏書を書いたのは、安永元年(1772 年)である。翠軒43 歳の時であった。両者の直接的な対面または文通がなかったとはいいきれない。おそらく現存する祇園精舎絵図とその由来を書いた裏書は翠軒が写させ、彰考館に保管したものであろう。この絵図面は藤原忠寄の祖父忠義が、長崎において通辞つうじ某から写し取り、少なくも2度の転写を経たものということになる。原図の製作者は長崎の島野兼了で、製作は、海外への渡航が禁止される1636年以前である。
 島野兼了はオランダ船でカンボジアへ上陸した。本人はインドのマガダ国、また、アンコールをジェタヴァナ「祇園精舎」だとだと思い訪れた。祇園精舎とはインド中部の釈尊(Saka-muni=BC566 頃~BC486 )が修行した僧坊のことである。17世紀初頭の日本では、マガダ国も祇園精舎も南天竺のシャムとカンボジア方面にあると言い伝えられており、カンボジアで暮らしていた日本人にとって、アンコール・ワットは、よく知られた存在であった。
 この史実を裏付ける文献で、アドゥアルテが書いた「歴史」の中のマニラ・ドミニコ会士の話がある。修道士たちは、1603年、イニィーゴ・デ・サンタ・マリア神父の案内でマニラに到着、1604年頃までカンボジアで働いた。アドゥアルテによると、布教した宣教師たちは一人の日本人が到来するのを見た。その日本人は、「阿弥陀仏と釈迦に詣でる旅で訪れたのであり、片方はシャム、もう片方は、カンボジアで生まれたと聞いた。」としている。この敬虔な参拝者は、アドゥアルテに従えば、カンボジア人を「品行が悪く、野蛮で教養もなく堕落している」とみてとって非常に衝撃を受け、衝撃的にカトリックへ改宗してしまったとしている。当時も今と同様な印象をカンボジア人から受けていたようだが、この日本人参拝者がいたという報告は、アンコール・ワットに描かれた森本右近太夫一房の墨書や島野兼了の「祇園精舎」の思想を確証するものである。17世紀初頭アンコール・ワット詣でが盛んであったのだ。

7.近代のカンボジアと日本
 ポスト・アンコール期において、日本人がこれ程カンボジア王国に影響を与えていたことは、あまり知られていない。16世紀末から17世紀初頭にかけて、カンボジアにいた日本人は、政治的にポルトガル人やスペイン人たちの傍らで重要な役割を果たしており、また、経済的にも大きく活躍していた。カンボジアと日本との往来も盛んで、朱印船貿易によって、プノンペンやピニャールーなどの日本人町ができていた。また、そこの日本人によって、「祇園精舎」としてのアンコール・ワットの噂が本国まで伝わり、わざわざ、アンコール・ワット詣でが流行っていたのであった。また、これらは、民間の活動であったが、公的な活動として、1603年、1604年の日本船カンボジア派遣があり、カンボジア王ソルヨポールが16055月に日本の天皇陛下宛てに親書を送っていたと、フランス人学者ノエル・ペリは発表している。
 私たちは、カンボジアの遺跡としてアンコール・ワットを訪れているが、実は、400年前は、日本人の心の聖地であったのである。また、両国の王家の交流など、眠っていた歴史が少しずつ明らかになりつつある。
「祇園精舎」と題するアンコール・ワットの平面図

森本右近太夫の墨書
 

2012年11月10日土曜日

最初にアンコール・ワットを訪れた日本人たち

最初にアンコール・ワットを訪れた日本人たち

(1)有名な森本右近太夫一房の墨書
 17世紀初期、アンコール・ワットを訪れた日本人がいた。肥後の松浦藩士の森本右近太夫一房であり、記録として残っている日本人としては、5番目に古い参拝者である。右近太夫の父の義太夫は、加藤清正の家来であった。右近太夫は、その父の菩提を弔うために、当時、平家物語に出てくる「祇園精舎」だと信じられたアンコール・ワットを訪れたのである。右近太夫は、寛永8年(1631 年)の暮れから9年(1632 年)の正月の間に、松浦藩の朱印船に便乗してカンボジアに到着し、寛永9年(1632 年)、アンコール・ワットの十字回廊に、「父の菩提を弔い老母の後世を祈るため」と記した次の文章を豪筆している。

1 森本右近太夫一房の墨書

寛永九年正月ニ初而此処来ル生国日本
肥州之住人藤原朝臣森本右近太夫
一房御堂ヲ志シ数千里之海上ヲ渡リ一念
之胸ヲ念ジ重々世々娑婆浮世ノ思ヲ青ル
為ココニ仏ヲ四行立奉物也
摂州津西池田之住人森本右近太夫・・・・・・・・
家之一吉○裕道仙之為娑婆ニ・・・・・・・・・・
茲ニ盡ク物也
尾州之国名黒ノ郡後室○・・・・・・・・
老母之魂明生大師為後生・・・・・・・・
茲ニ盡物也
                 寛永九年正月卅日

(2)17世紀のアンコール・ワットと日本
 右近太夫の訪問期というのは、ポスト・アンコール期にあたり、1431年のアンコール朝崩壊後、アンコール・ワットは上座仏教寺院に衣替えした時代である。、ポスト・アンコール期の偉大な王、アン・チャン1世(154676年)はアンコール・ワットを修復し、それ以後、各王がアンコール都城の復興を行い、住民の移住を奨励した。ちょうど同じ頃、西欧の宣教師たちも、この旧都の様子を書き残している。
 一方、日本では徳川家康が慶長8年(1603 年)に幕府を開いた。その時代、外国と日本との往来も盛んで、数多くの日本人が朱印船貿易によって現地へ赴おもき、日本人町を形成していた。カンボジアには、プノンペンと貿易港ピニャー・ルーの2ヶ所に日本人町があった。また、当時の日本人はこの東南アジア地域を南天竺と考えていた。
 しかし、右近太夫がアンコール・ワットを参詣した3年後の寛永12 年(1635 年)には、鎖国の方針が打ち出され、渡航禁止と帰国日本人の踏み絵が発表された。右近太夫は鎖国前のこうしたあわただしい雰囲気の中で帰国したようである。それと時を同じくして、1632 年加藤家は改易となり、すでに肥後(熊本)は細川藩に変わっていた。右近太夫は、松浦藩に仕えた後、父義太夫の生誕の地である京都に移り住んでいた。京都の寺で発見された墓碑には、父義太夫の法名のみ刻み込まれ、森本の俗名はない。しかし、位牌には森本義太夫が1651 年に没し、森本佐太夫(右近太夫)は1674年に没したとある。右近太夫は海外渡航時に使用した実名を隠し、厳しい鎖国令に対して社会的に身を隠す必要があった。そのため、右近太夫が改名し、佐太夫を名乗ったのである。また、森本家の子孫が新たに仕えることになった細川家に対する配慮もあった。

(3)森本右近太夫一房についての伝聞
 森本右近太夫一房の没後も松浦藩にはアンコール・ワットが伝えられていた。平戸の松浦藩主松浦静山の随筆集『甲子夜話』正篇巻21 の中に右近太夫の記述がある。

「清正の臣森本義太夫の子を字右衛門と称す。義太夫浪人の後宇右は吾天祥公の時お伽とぎに出て咄はなしなど聞かれしとなり此人誉て明国に渡り夫それより天竺に住たるに彼国の堺なる流砂川をわたるとき大魚を見たるが、殊ことに大にして数尺に及びたりと云夫それより檀特山に登り祇園精舎をも覧てこの伽藍がらんのさまは自ら図記して携還れり。今子孫吾中にあり正しくこれを伝ふ然ども今は模写なり。」

 『甲子夜話』は文政4年(1821年)11 月甲子の夜に筆を起こし、天保12 年(1841 年)6月に死去するまでの、20年間にわたって書き綴られたものである。ここにある「ここより檀時山に登り祇園精舎をも覧て」とは、「ここより中央嗣堂に登りアンコール・ワットを一覧した」ということである。また、これらの記述から、右近太夫によるアンコール・ワットの絵図が松浦家中に残されていたことを示している。

(4)アンコール・ワットを訪れた日本人たち
 この他、アンコール・ワットの十字型中回廊の壁や柱などには、日本人参詣者の墨書跡が15ヶ所残っている。判読できるこれら落書きの年代は慶長17年(1612年)から寛永9年(1632 年)まで20 年間のものである。この時代は、朱印船の活動が活発であった時代であり、墨筆者は朱印船に搭乗した人たちであった。例えば、慶長17 年(1612 年)度の墨書には“日本堺”と記すものが多く、同地の商人によって送り出された船に乗っていた団体旅行を行ったの人であった。また、朱印船には船の運航に必要な船員の他に、便乗商人というべき客商も少なからず乗り組んでいた。彼らは寄航地において独自に貿易を行ったが、船の商品の上げ下ろしには直接関係がないから、次の出航までの問を利用してアンコール・ワットに詣もうでることも可能であったろう。肥後国の安原屋嘉右衛門尉は、これら客商の一人であった。
また、墨書にある地名として「泉州堺」と「肥前」「肥後」、さらに解読が難しいが「大阪」らしき地名が現れている。つまり、渡航者は平戸、長崎、肥前の出身者が多く、次に堺および大阪商人であった。
 これらの墨書の位置を図2に示す。



2 日本人墨書の位置(十字回廊付近の拡大 ①が森本右近太夫一房の墨書  
 以上、これらの多くの日本人の痕跡がアンコール・ワットに存在し、カンボジアと日本との意外な関係があった。しかしながら、残念なことに右近太夫の墨書は、1970年代の内戦時、ポル・ポト派によって墨で塗り潰されてしまった。そのため、現在は大変読みづらいものとなっている。