2015年5月24日日曜日

森本右近太夫一房の墨書

今日、テレビ番組「林先生が驚く 初耳学!」で、森本右近太夫一房の墨書が紹介されていました。また、子孫にあたる岡山在住の森本氏も出演されていました。
ポルポト兵による損傷を受ける前の写真は、「『インドシナ研究』 1965」でもみることができます。ちなみに、3年前に神保町で1冊6000円で売ってました。
詳しい内容については、次を参照してください。
「つやま自然のふしぎ館」の「歴史民俗館」 展示品

訳文1


訳文2

2013年10月8日火曜日

カンボジアと日本 ~中世の朱印船貿易を通じた交流~





カンボジアと日本 ~中世の朱印船貿易を通じた交流~

0章 はじめに
 前回、カンボジアでの日本人の政治的な関わりをまとめた。そこには、西欧による軍事介入の歴史があり、そこに、日本人も関与していたことを記した。なぜ、その事実があまり知られていないのか。それは、カンボジア人が民族の歴史を自分たちで正確に伝えられなかったからである。もちろん、文献による日本との交流の記録は、カンボジア側にはほぼない。この章では、日本人の経済的な関わりを通して、消えかかったカンボジアの歴史をまとめる。
 近年、カンボジアへの輸出額は増加傾向にあるが、これは政治的な安定とともに、人的交流が活発化しているからである。それ以前は、内戦以外の時代であっても、それほど貿易額は大きくなく、戦後のカンボジアとの経済的交流はいまほど多くはなかった。しかし、遡ること400年あまり、日本との朱印船貿易が、カンボジア経済に強い影響力をもっており、転じて政治的な介入も行っていた時代があった。当時、その朱印船は日本側にとっても重要な品を扱っており、また、その取引で大きな利益を上げていた。今回、その根拠となる文献を引用しながら、その当時の日本人の役割を明らかにしてみる。

1章 朱印船とは
1-1 初期の朱印船
 意外なことに、カンボジアと日本の貿易は、朱印船制度の創設初期にあたる文禄年間(15921596)から行われていた。朱印船の始まりは、豊臣秀吉が、海外に渡航する商船に対して朱印状なる渡航免状を発給したことによる。文禄年間の初めに、京、堺、長崎の船へ南方各地渡航許可があったが、誰もが自由に公認貿易を行えた訳ではなかった。これに関して『長崎拾芥』に、
「往昔は異国に渡ること、遣唐使其の外の船にて渡航ありしが、唐造の船にて商売の為渡海の事は、文禄元年壬辰年より広南(クアンナム、ベトナム)、柬埔寨(カンボジア)、東京(トンキン、ベナム)、六昆(リゴール、タイ)、太泥(パタニ、タイ)、東寧(トウネイ、中国)、呂宋(ルソン、フィリピン)、亜媽港(マカオ、中国)、暹羅(シャムロ、タイ)の国々にいたる。之依、秀吉公、権現様、台徳院様より御朱印頂戴、文禄元年より寛永11年迄43年の間、年々渡海仕、商売之利潤余り有り、世の人争ひ往んと思へとも、御免の者制限之有。」
とあり、初めて、文禄元年(1592)秀吉が南方渡航船に朱印状を与えて以来、寛永11年まで大いに発展し、希望者が多いにもかかわらず、特定の物に制限されたことを伝えている。

1-2 朱印状とは
 ここで、朱印船制度についてまとめる。まず、朱印状を簡単にいうと、政府公認の貿易証書であり、また、他国に対して貿易船へ保護扶助を与えるように要請したものである。現代で言えば、税関による輸出申告、輸入申告の許可の要素に加え、船籍証明書を意味する。正確に、朱印状異国渡海御朱印状の意味とは、海外に渡海する貿易船に下付した朱印状で、発給側から内外2方面の性格が与えられ、受給者側もその効力を期待した。国内的性格として、海賊や密貿易船と区別して、政府特許の正当な貿易船として立証するためで、その貿易営業を特定の受給者に許可し、かつ貿易地も指定して下付したものである。対外的性格として、広大な国外水域や港湾における航海の安全と、便宜を供与することが期待されていたものである。
 豊臣秀吉の創設した朱印船制度は、秀吉によるフィリピン征討問題と通商条約締結へ向けた動きなどの内外各方面の情勢に促されて、文禄元年(1592)に発足整備された。その後の徳川氏の朱印船制度は、江戸幕府成立以前の慶長6年(1601)から開始された。

2章 カンボジアへの渡航
2-1 朱印船の記録
 記録が残っている下付された朱印状は、慶長9年(1604)から寛永12年(1635)までで44通であった。これは、江戸幕府が慶長9
(1604)から第4回鎖国令が出される寛永12(1635)までの約30年間に下付したのが356通であるので、その約8分の1にも上る。隣国の台湾などとの距離や政治状況を含めて考えると、カンボジアへわざわざ危険を冒してまで貿易する価値が大きかったことを表している。また、慶長中期に頻繁に訪れていたことが判る。この時代から取引が活発に行うことができていことから、円滑な取引の仲介を行う組織が、すでに成立していたに違いない。それは、後に述べる現地の日本町がすでに形成されていたことを案じさせる。
 また、カンボジアとの貿易は、密航が行われるほど魅力的なものであったようだ。幕府は、海賊と区別するために朱印状の下付を一部の者に制限されていた。そのため、認可されないものが、幕府の朱印船制度を蹂躙した脱法行為を行っていた。16291214日(寛永6年)オランダ商館長が平戸から出した書信中に、
「この船は カンボジアに向かい出帆したが、世評によれば皇帝のパスを所持せず、ただ采女殿の許可証を携えていた。」
とあり、将軍の渡航朱印状に代わる他の特定大名の出したパスが使用されていた。


2-2 欧州人による記録
 カンボジアへの貿易船の消息は、欧州人の航海記等にも伝えられている。イギリス船ジェイムス・ロイヤル号の航海記 16201222日の条に、 
「金曜日。本日オランダ人ヤン・ヨウルソン(Jan Jowlson)に属して、カンボジアに向かう長崎の一ジャンク船に遭遇した。予は同船の船長に甲板上でのパスポートの提示を求めて、それが日本皇帝のゴション(Goshon)であることを認めたので、予は彼に直ちに出帆することを許した。」
とあり、女島沖でカンボジアへ航行している日本の朱印船でオランダ人航海士ヤン・ヨーステンの船に出会っている。また、コックス日記には、1618年度カンボジアの朱印船が2船載録されている。さらに、162413日(元和9113日)付、東インド総督ピーテル・デ・カーペンチール(Pieter de Carpentier)ならびに参議員から東インド会社重役に送った一般政務報告の中に、
「カンボジアから3隻」長崎へ帰航したことが記されている。
 1605年(慶長10年)の末、イギリスの当方派遣艦隊司令官エドワード・ミチェルボーン(Edward Michelborne)の配下の一船長ジョン・デヴィス(John Davis)の航海記によると、彼がシンガポールの南ビンタン島に近い一小島からパタニに航行中邂逅した日本船について、次のように記している。
1227日予が当地から太泥に針路を向けた時、1隻の日本船に邂逅した。同船はシナとカンボジアの海岸を掠奪して来航したもので・・・・・同船は70トンに過ぎず、乗組員は90人であって、船員としては武張り過ぎた風があり、彼らの仕事は全く同等でいずれも同輩のように見える。それでも彼らの間に一人のキャプテンと呼ばれる者がいることはいるが、彼らはほとんどこれを尊敬していない。」
とあり、この場合、海賊船で朱印船とは認めがたい。
 これらは、カンボジアへ向かった船の様子を伝えてくれるものであり、また、西欧諸国も報告書に記すなど、日本の貿易船に関心を払っていたことを示している。





2-3 カンボジアへの渡航日数
 まず、朱印船の渡海日数について、後に記載する二世三浦按針の朱印船は、1936年5月末日にカンボジアを出帆して、7月27日に長崎に帰航している。その所要日数は57日になる。一方、『通航一覧』に引用している『正事記』によると、
「長崎の町人伽羅屋森助次郎といふもの、カンボジアに渡りたる物語しけるは、長崎よりカボチヤの川口迄の積り、日本道千八百里の所を、日数十九日に行たり、川口よりカンボジアの船着迄、幅日本道の積り三十七、長さ五百里の大河を、日数六十日にのほる、流れ早き故に手間入りとなり、・・・・其国甚あつし、助次郎二月に行着けるに、着て廿日程はたかになりて、扇子はなさす、目もくらむやうに堪かたく覚ゆ、廿日程過ては、暑になれ左様にもなかりしと也。」
とあり、森助次郎の便乗船は長崎出帆後79日かかっている。この差22日は、メコン河の遡航と下航に要した日数差であろう。
 次に、欧州船の渡海日数は、カンボジア発日本行で、1637年航行したハレヤス号で41日、1643年航行したオランジボーム号も41日、日本発カンボジア行で、1641年航行したロッホ号で67日かかっている。このロッホ号は1642年1月9日に台湾からカンボジアのメコン河口に達し、80マイル航行して同月25日目的地に到着投錨するまで17日を要し、日本出帆以来通算68日かかっていた。ここで、カンボジアより日本に航した際に比べて相当日数に開きがあることを示しているのは、西欧のガレオン船と、日本のジャンク船をベースとしてガレオン船の融合帆船との性能の違いであろうか。

2-4 カンボジアでの取引環境
 カンボジアにおいては、課税がなかったようである。ただし、土地の主権者、貿易関係高官や港務貿易担当者に対して、相当多額の贈物を使って貿易の円滑な遂行を計らねばなかった。オランダ人が1622年10月頃受け取った同国現状報告の中に、
「カンボジアの国王は、関税すなわち輸出入品の税を取らないが、ただ同地に来る外国人、すなわち他の国民が少しも強制されることなく、自らの発意によって、貿易のためおよび敬意を表するために、陛下に呈する贈物を受け取る。」
とあり、この点を明確に記している。

3章 朱印船を支えた要素
3-1 朱印船乗組員
 日本からカンボジアへの航海では、日本人の航海士のみならず、欧州人航海士が活躍した。その一人がオランダ人航海士フランソワ・ヤコブセンであった。
『バタヴィア城日記』によると、同船は長崎奉公竹中采女の船で、同年1月23日バタヴィア港に曳船され、この指令の翌6月27日同港から出帆して日本に向かっていて、日本船の同港入港は稀有の例であった。これより先、同日記同年4月14日の条を見ると、
「同月14日閣下はカンボジア船から舵手フランソワ・ヤコプセン(Fransois Jacopsen)の手紙を受け取ったが、この舵手は、平戸の殿の所有の一日本船で同地に到着して、閣下に詳細に報告した。
とあり、カンボジアに航した松浦氏の商船のオランダ人按針は、その姓名さえ判明する。
 しかるに『平戸オランダ商館日記』の翌1633年9月13日(寛永10年)の条には、
本月13日東京から角倉船(Suminocqure)に乗船した舵手フランス・ヤコブセン・フィッセル(Frans Jacobssen Visser)の報告を受け取ったが、同地における貿易事情を次の如く報告して来た。」
とある。松浦船の按針手フランソア・ヤコプセンと角倉船のフランス・ヤコブセン・フィッセルとは同一人であろう。彼は按針を定職として随時諸家の朱印船に傭聘されていた。
 また、モルガの『フィリピン郡島誌』には、ちょうどその頃交易のため長崎からカンボジアのメコン河を遡って貿易港チョルドムク(Chordemuc)、すなわち現今の首府プノンペンに来航したポルトガル人の1船について、
「同じ頃、ポルトガル人と日本人の混血児で日本に在住していたゴヴェア(Govea)は、長崎港で手に入れたジャンク船に、混血児若干や日本人、ポルトガル人を乗り組ませて、貿易投機のため、シナ海岸、チャンパとカンボジアに向かって出帆した。」
と述べており、日本在住のポルトガル人の船に日本人船員も乗り、カンボジアへ渡航していた。ちなみに、このゴーベアは、カンボジアで騒動を起こした人物である。
 このように、朱印船に乗り組むのは、船長以下、按針航海士、客商、一般乗組員らで、航海士には中国人、ポルトガル人、スペイン人、オランダ人、イギリス人が任命されていた。

3-2 カンボジアとの貿易品
 寛永の鎖国以前に貿易家の手記に基づいて作成された『異国渡海船路の積』などの諸書によると次の通りである。
輸出品
銅、鉄、所帯道具、扇子、傘、硫黄、樟脳、薬鑵
輸入品
鹿皮、漆、象牙、蠟、蜜、黒砂糖、水牛角、犀角、檳榔子、大楓子、胡椒、鮫、孔雀尾、木綿、鬱金
である。また、前出の東インド総督アントニオ・ファン・ディーメン(1636年)の中に、
「カンボジアには、日本向け商品の在庫がない。1635年将軍の渡航免状を携えて長崎から同地に渡航して同年柬埔寨に滞留していた日本人らが、一切買い占めて、前述のように本年5月末日500トンの1ジャンク船で、鹿皮7万枚、漆3万斤、ならびに若干の蠟、象牙、胡桃などを日本に輸送した。」
また、1634年11月24日平戸のオランダ商館長ニコラース・クーケバッケル(Nicolaes Couckebacker)がバタヴィアに送った報告中に、
「去る2月末朱印状6通下付された。2通は東京、2通はコーチシナ、2通はカンボジア宛であった。3月に1船は資本100貫目と樟脳、日本着物その他の小間物などの商品30貫目を積んでカンボジアに向かい・・・・前記の船はカンボジアから鹿皮約4万枚、その他鮫皮、蝋、蘇木、漆、錫、象牙およびカンボジア胡桃等をもたらし」た。
以上のように、カンボジアから主に粗製原料を輸入していたことが判る。
 輸入品のうち、錫は、すでに前世紀の半頃からも盛んに銃弾用として輸入されたものである。また、鹿皮については、カンボジアをはじめとする朱印船によって年間7万枚から25万枚輸入された。当時の朱印船以外の鹿皮も含めた総輸入量を30万枚を1年間の限度に近い数字とすると、16万枚でその5割余り、25万枚で8割余りに当り、朱印船が鹿皮の取引において断然優位を占めていた。カンボジアへ銅、鉄、硫黄などの鉱産物や、樟脳の外、その大部分が雑貨や工芸品であった。これは当時の社会事情の相違、特に工業技術の大きな開きが貿易に反映したものであった。

3-3 カンボジアへの朱印船貿易家
 朱印船制度を通じて、貿易家は、商人、大名、武士、明人、西欧人に分けられる。このうち、カンボジアへの貿易家は、大名と商人である。
 大名として記録にあるのが、次のものである。慶長10年(1605年)、筑後の原弥次右衛門は、安南(北ベトナム)とカンボジア宛に朱印状を得た。その縁故で、カンボジア国の使節が薩摩に来朝した際、弥次右衛門が案内斡旋している。この弥次右衛門の船の場合、所有主は島津氏で、貿易家原弥次右衛門等がこれを借り受け、島津氏に傭船料を支払っている。
 一方、カンボジアの貿易家の大部分は商人であった。それは、カンボジアなどへ朱印船貿易を行うためには、巨費を出資してくれるパトロンが必要であったためである。さらに言えば、その役割を担ったのが、銀座年寄と呼ばれる豪商たちであった。彼らは、自身のもつ特権によって、銀貨を運用し、その運用益を得ていたのである。朱印船貿易は、その手段のひとつであった。当時、朱印船をはじめ対外貿易において、もっぱら銀貨が決済に充当されていており、豪商たちが巨額の銀貨を準備できる背景は次のことからであった。
 銀座年寄は、幕府の諒解と、その監督保護の下に、諸国銀山産出の灰吹銀や世間の古銀を買い入れる地銀買い集めを本業としていた。また、新たに吹き立てた通用銀などには、常是をして極印を押さしめ、座人は銀貨改鋳請負の代償として、改鋳高に応じて手数料を上納した。また銀買い集めの資本として、幕府から銀座元手銀を三ヵ年越に貸与されたので、その特別な待遇に対する冥加として運上銀をも上納したが、一方全国的な組織を備えて独占的に銀貨の鋳造改鋳を司って生ずる利益を、年寄以下平座人一同に、座分割合をもって階級に応じて配分したので、彼らは莫大な利益を均霑していた。 
 このような社会的な地位を得ていた豪商たちは、朱印船貿易の銀貨決済という仕組みによって、派船する貿易に容易に進出することができたのだった。また、各地の銀座の年寄等は、緊密な連絡を有しており、主として貿易資本銀の調達やその搬出の監督に当るために設置された長崎の銀座をはじめとして、各地の特権商人が大きな役割を演じていた。
 
 当時、商人の貿易家で主要な人物は次の7氏であった。茶屋氏、末次氏、末吉氏、角倉氏、平野氏、橋本氏、三浦氏である。その内、カンボジアに関ってくるのが、橋本氏と三浦氏である。
 まず、京都の橋本十左衛門である。橋本氏は代々十左衛門の名を称し、銀座の年寄として、あるいは平座人として勤め、時には江戸詰にも当っていた。朱印船貿易において、橋本氏の名が初めて出てくるのが、島井家の投銀証文の中、寛永8年カンボジア渡航船橋本十左衛門船に対する本山勘右衛門の投銀についてである。また「寛明日記」中に、寛永9年渡唐の船として長崎から橋本船が渡航したことを伝えており、橋本氏はこの頃頻りに海外へ派船していた。前記と同船である。の「平戸オランダ商館記」によると、寛永11年に海外渡航朱印状を受けた7商人の一人にも橋本十左衛門の名があげられている。橋本家では、家康の命によって一時太田備中守資宗の弟資信が入って家を継ぎ十左衛門と称したが、その年代から、この資信かあるいは同名の後嗣十左衛門であると思われる。
 次に、三浦按針である。三浦氏は、イギリス人であるが帰国を許されず、お雪(マリア)と結婚した。。父アダムズ、すなわち按針以来幕府との縁故が深く、家康の外事顧問格の地位もあり、相模国逸見に250石の旗本して領地を有していた。また朱印船貿易をも経営し、アダムズの死後、子ジョセフも按針を称し、事業と領地を継承した。この親子2代の三浦按針が、カンボジア貿易で大きな影響を与えた。
 主要な朱印船貿易家の派船をまとめると次のようになる。

4章 カンボジアへの渡航理由
4-1 最後の朱印船とその貿易利益
 前章では、朱印船の運航を支えた要素について言及した。そして、この章では、カンボジアが頻繁に行われた理由を明きあらかにする。それは、単純に、船が無事寄港し、成功した際に手に入る貿易利益に表現される。
 まず、当時の先行投資の最大要因である朱印船の船価は、積量200トンで船価20貫目であった。その朱印船の船価について、因幡の領主亀井玆矩は、慶長12年(1607)に西洋宛、同14年(1609)と同15年度(1610)にシャムロ宛朱印状を受けているが、慶長13年(1608)4月には家臣の塩五郎大夫に命じて長崎で60万斤の貿易船を建造することを命じ、15年にはシャムロ在住日本人握浮●・純広の斡旋で優秀な貿易船を買った。この事蹟を伝えた小倉友賢の『因幡民談』によると、
「亀井武州この利倍を考へられ、我も舟やらんとて、蓄へ給ふ財宝限りなければ、長崎に於いて数十貫目の舟を買ひ、京都、堺にて其の国々へ赴く商売の物、或は刀、脇指、金銀の細工物、京染の小袖、奈良の曝布染、蒔絵の諸道具、絵屏風など色々の物を調へ下し、是を船に積入れ、両郡へ役にかけ、百姓共を舟子とし、シャム、カボチャ、所々に渡されけるに、案の如く売買ことの外利潤ありて、金銀の殖たる事限なし。」
とあり、玆矩は常に自ら朱印船を買入れ、輸出品を調達し、前述のように家臣を船長に任じて船の運航と商品の売買を監督させ、領民を舟子としたようであるから、彼はこの貿易の主要な経営者で、ほとんど独力全額出資したことがわかる。そして一度、渡航が成功すると相当の利益を得ていたことになる。また、木材の品質もよく造船技術も優れていたシャムロで大量の船が現地の日本人の仲介により注文・購入されていたことを裏付けている。

 また、別の記録からその投資額を垣間見ることが出来る。それは、オランダ人の不法を訴えた記録で、そこに商船の元手について記載が残っている。元和9年(1623)長崎を出帆して交趾(中部ベトナム)に渡航した荒木惣右衛門(Aracki Soyemon)船に便乗した伊丹四郎兵衛(Itamy Sirobioye)と浅里助右衛門(Asahi Schemon)等は、同地で一小船を雇い、持参した銀資本を同船に積み換えてカンボジアに航する途中、チャンパ沖でオランダ船に拿捕されたが、両人は逃れて茶屋又七郎(Chaja Matastero)の船で帰国し、被害の銀資本55貫620匁4分やその他の商品目録を長崎奉公に提出してオランダ人の不法を訴えた。そうしてみると、これらの客商の携えた資本は相当多額であり、その利益はさらに上がっていたことになる。
 さらに、1634年11月24日平戸のオランダ商館長ニコラース・クーケバッケル(Nicolaes Couckebacker)がバタヴィアに送った報告中に、
「去る2月末朱印状6通下付された。2通は東京、2通はコーチシナ、2通はカンボジア宛であった。3月に1船は資本100貫目と樟脳、日本着物その他の小間物などの商品30貫目を積んでカンボジアに向かい・・・・前記の船はカンボジアから鹿皮約4万枚、その他鮫皮、蝋、蘇木、漆、錫、象牙およびカンボジア胡桃等をもたらし、」
とある。カンボジア渡航船の場合、現送資本100貫目の他、総額30貫目の商品を積み込んでいたから、つまりその現送資本は、積荷の総額の3倍余りに当っている。
 そして、鎖国直前、カンボジアへの最後の朱印船は、二世三浦按針の船であった。この船は、積荷が一杯になるまでカンボジアに滞在し、帰国後、大きな利益を得たのであった。一方、カンボジア国内においては、この朱印船が本国で利益となる商品は一切合財積み込んだため、一時的に鹿皮など日本向け輸出品の品不足が発生したのであった。
1636年12月28日(寛永13年)、東インド総督アントニオ・ファン・ディーメン(Antonio van Diemen)ならびに参議員等から本社に送った一般政務報告の中に、その様子が記録されている。
「カンボジアには、日本向け商品の在庫がない。1635年将軍の渡航免状を携えて長崎から同地に渡航して同年柬埔寨に滞留していた日本人らが、一切買い占めて、前述のように本年5月末日500トンの1ジャンク船で、鹿皮7万枚、漆3万斤、ならびに若干の蠟、象牙、胡桃などを日本に輸送した。」
とある。この船は、寛永12年(1635)に、ただ一人最後のカンボジア渡航朱印状を受けた三浦按針の子の船である。この二世三浦按針は、鎖国直後最後に多量の商品の輸入を企てたのであった。
その続きとして、同船について他の記述がある。1636年(寛永13年)に同地に渡航したオランダ東インド会社の特派使節ヤン・ディルクスゾーン・ハーレン(Jan Dirckszoon Gaelen)の渡航日記1636年6月14日の条に、
「当地に12ヶ月前日本から皇帝のパスを携えたジャンク船1隻来航したが、同船は鹿皮7万枚、胡桃若干、百斤12両の黒漆3万斤と多量の鮫皮を買上げて、5月末日当地から日本に向かい出帆した。」
とある。5月末同地を出帆して帰航の途についてが、帰着の日については、平戸の「オランダ商館日記」1636年7月27日の条に、
「日本船がカンボジアから長崎に帰着したが、同船は積荷不足のため、同地に一年停留していた。積荷は、鹿皮、鮫皮、漆、カンボジア胡桃、その他で諸経費の外、十割の利をあげたと言われている。」
とあり、投資額の倍の利益を上げたことが記されている。
 このように、中世におけるカンボジアへ渡航する理由は、現地の地勢や政治に関係なく、日本国内で準備した資本金を基に、買付けを行い、それを国内にて捌いて多大な利益を上げることであった。

5章 カンボジア貿易の特徴
5-1 カンボジアにおける朱印船優位の理由
 カンボジアの港湾において、朱印船は指導的立場を維持した。一度朱印船が貿易港に入港すると市況は頓に活気を呈し、彼らは貿易品を大量に買い付けて母国市場に輸入したので、渡航先の日本向け商品は俄かに騰貴し、終には払底して外来欧米人の取引に多大な支障を来たす程であった。
 次に、その優位に取引を行えた理由をまとめる。
イ、朱印船は、海外市場における国際通貨であり、かつシナ人等の熱望する銀資本を豊富に携行して、彼らとの取引を強力適切に推進することができたこと。
ロ、朱印船の渡航先各地には、日本人が多数移住し、奥地各地に分散している土着生産者から、朱印船の帰帆に間に合うように、直接製品を短期間に多量にかつ廉価に買い付け集荷し得たこと。
ハ、朱印船関係商人は、貿易品の市況に精通し、かつ母国市場におけるその売捌きにも習熟して、母国市場と海外市場とを強固に連繋し得たこと。
少なくとも以上3点によって、国家を背景として、その資本、その船舶、その貿易機構において優越している欧州人の貿易に拮抗して、朱印船は一時これを制圧することができて、鎖国によって朱印船が南方の港湾から完全に姿を消すまで、彼らはその脅威から解放されることができなかったようである。

 そこですでに早くも1620年3月(元和6年)にイギリス商館長コックスも、東インド会社に、日本や東亜の現状を詳報した中で日本の貿易について、
「日本貿易を主に駄目にするのは、日本の商業をその手中に独占している富裕な金融商人の一団である。従来われわれに日本国中全土にわたって皇帝大御所様から、どこでも通商することを許されていた特権を剥奪されたのも、彼らのせいであった。そして今では現皇帝将軍様によって、平戸と長崎だけに制限され、他の土地は悉く禁止された。それというのも、彼らは皇帝と顧問等の寵遇を大変受けているので、復権を要請しても徒労であった。彼らは前述のように、その欲するところを悉く手に入れるだけで満足せず、平戸や長崎に下って来て、合同して、マニラ、コーチシナ、トンキン、カンボジアやその他有利と思う土地に、ジャンク船を送って、他の外国人のもたらすことができる、あらゆる商品を日本に供給し、そして彼らは、彼ら自身または彼らに喜んで合同しようとする人々以外には、彼らの知っている他の人々や、または他の外国人でも、日本の他のいかなる地方にも、それらを輸送することができないのを承知している。このことは私に日本に対してすっかり恐怖心を抱かせるのである。」
と記したのも、この実情を端的に訴えたものである。

5-2 貿易を優位に行えた背景 ~日本町の形成~
 前項のように、朱印船は西欧に比べて優位に取引を行うことができた。その背景として、現地の日本町の存在が大きい。この項は、日本とカンボジアの関わりの中で特に重要な要素であり、当時の社会状況が明確になるものであるから、別項として取り扱う。

6章 カンボジア貿易からの撤退
6-1 朱印船貿易の終結
 慶長17年(1612)、切支丹禁制の発布により、海外渡航も禁止されることを指していた。これ皮切りに一連の鎖国政策により、東南アジアで地位を築いた朱印船貿易および日本町は姿を消すことになる。その影響は、対日本貿易および東南アジアにおける貿易取引の主導国の交代を引き起こした。
 寛永12年(1636)5月、日本船の海外渡航禁止令が発布されていて、オランダ人が永年手こずった朱印船の貿易が杜絶すると、その影響が広がっていった。1636年1月4日(寛永12年12月)オランダ領のバタヴィア総督府から出した一般政務報告の中に、
「よって彼(将軍)は種々考慮の末、日本人は一切海外渡航船に乗ることを禁じ、仮令交趾シナ(北ベトナム)、広東(中部ベトナム)、またトンキン、チャンパ、カンボジア、マニラ、パタニ、台湾、またはその他いかなる地方にもこれを許さず、かつまた最短期間内に海外から日本人を悉く呼び戻した。そこで、広南における最大にして地位ある貿易商平野藤次郎殿は、銅の穴明き銭で日本人が日頃広南においてこれで多額の利益を挙げていたピッチ、すなわち銭100ラスト余を会社に売り渡すことを申し出たので、クーケッバケル氏も極めて有利な条件でこれを安値で買い入れた。」
と記している。ここの朱印船貿易家中の指導的人物代官平野藤次郎が、かねてより巨利を収めてきた銅銭貿易を、オランダ人に譲渡せざるを得なくなった苦境を伝えている。
 そして、オランダ人は貿易の実行方針を確立して、かつて日本が覇権を誇った地盤にオランダ人の商権を拡大することを計った。それは、バタヴィア総督府決議録1636年4月11日(寛永13年)の条に
「日本の皇帝が、死刑をもってその国民の海外渡航を禁止したので、この好機会を利用して、彼ら国民が従来渡航していた地方、なかんずくカンボジアの如く、かつてわれらが貿易を行わなかった地方に、会社の貿易を拡大すべきことに決定した。」
と、カンボジアを強調して記している。

6-2カンボジアのオランダ商館
 この影響は、カンボジアと日本人にどのような影響を与えたのであろうか。
 上記のバタヴィア総督府の決定後、わずか7日、1636418日には、早くも東インド総督府は、アウデ・ワーテル(Oude Water)とスハーヘン(Schagen)の両船に総額79,810グルデン余の貨物を積み込み、上席商務員ヤン・ディルクセン・ハーレン(Jan Dirksen Gaselen)を特使として柬埔寨に派遣した。その出帆に当って、また左の訓令が与えられた。
「帆船アウデ・ワーテルは、鹿皮より成る日本向け積荷を整え、もし可能ならば、7月末日頃柬埔寨河の州を発して平戸に向かい、商務員ヤン・ディルクセン・ハーレンはまず商務員ピーテル・スウリー(Pieter Soury)に商品の残部を引き渡して、同地において貿易を継続せしめ、またバタヴィアおよび内地各所に必要な米4,5百ラストを購入することに努力せしむべし。右アウデ・ワーテルは、貿易継続に必要な現金および商品を積んで日本から柬埔寨に帰り、同地において米、安息香、赤漆、白荳蒄、蠟等を満載し、商務員ピーテル・スウリーが乗り組んで、なるべく速く当地に帰航すべく、また上席商務員ファン・ハーレンは右スウリーから商品証書、計算書ならびに残品を引き継ぎ、日本向け商品の新規買入れのためカンボジアに滞留すべし。」
 すなわちハーレン等は訓令に基づき、カンボジアに赴き、同地日本町の長の斡旋を得て、同国の政府と折衝して日本町の南端に一地を得て商館を開設した。しかし、前出の三浦按針の商船が最後の朱印状を得て同地に渡航し、繋船一年の後多量の商品を買い占めて帰航したため、オランダ商館に残された商品は少なかったが、ハーレンは鎖国後における貿易拡大の希望をもって、商品の買付けに着手した。
 すなわち、16361228日付総督府の一般政務報告によると、
「上席商務員ハーレンは、売れ残り商品を有利に捌き、日本向け商品を手配するために柬埔寨に居残ったが、今後の疑いもなく極めて好転するであろう。蓋し日本人は、今までは皇帝の渡航免状を携えて、もってこの非常に有利な貿易を継続していたが、最早われわれの妨げとならないであろう。そこで来る4月再び同地に派船するために準備を整え、商務員ハーレンは、予め、価額13貫1匁半の鹿皮8,500枚買上げた。・・・・・・・・・なお前記ハーレンは、柬埔寨在住日本人から下記の商品を一両3グルデンの相場で、5,527グルデン15スタイフェル10ペンニング受け取ることを契約した。すなわち黒漆正味2万斤を柬埔寨ピコルにつき115匁、シャグマ種210匁、しかして劣等品三種100匁につき130匁である。よって、来る1637年度柬埔寨において日本向け商品はかなり多量に準備されることは明白である。」
とあり、オランダ人は従来カンボジアにおける日本貿易の集荷に当って、朱印船貿易の重要な一翼を担っていた在来日本人と手を握って貿易を営み、爾後朱印船に代わって日本との間の中継貿易を行うようになったのだった。
 オランダの感情を端的に示すものとして、幕府の1639年ポルトガル(ガレウタ)船渡航禁止令の発布によって、オランダによる日本貿易独占達成の報に接し、オランダ領のバタヴィア総督府で同年12月10日に祝賀と感謝の催がわざわざに執り行われたことに表される。

7章 カンボジアとの貿易のまとめ
イ、朱印船は多額の銀資本を携えて渡航したが、渡航先各地においてはもっぱら銀が貿易の決済に使用されたから、彼らはその貿易を、自分の欲する有利な条件と方向に展開することができた。
ロ、朱印船は渡航先において貿易品を大量に買い付けたので、その成否は渡航先における貿易品の市価に鋭敏に響いた。また、その市場における貿易品の供給の増減と集荷の遅速にも影響するところが少なくなかった。
ハ、朱印船はもっぱら季節風を利用して往来航行し、晩秋初冬の北風によって南航し、晩春初夏の南風に乗って帰航したので、渡航先における碇泊期間もこれに左右されて短期間に貿易を遂行せねばならなかった。
ニ、朱印船の短期間中における貿易の完遂に対応して、積荷の売捌き、買付け商品の集荷、包装、積込みには、渡航先各地の在留日本人の協力援助に頼る点が少なくなく、その貿易を有利に展開することもできたが、そのためオランダ人等欧州人も押されがちであった。
ホ、移住した日本人の有力者は、同地方の官憲との関係が深く、時には港務・貿易関係の要職を担任したから、彼らは職掌柄朱印船の入港貿易に、土地の官憲と折衝したり、あるいは便宜を計った。
ヘ、カンボジアにおいては、課税がなかったようである。ただし、土地の主権者、貿易関係高官や港務貿易担当者に対して、相当多額の贈物を使って貿易の円滑な遂行を計らねばなかった。オランダ人が1622年10月頃受け取った同国現状報告の中に、
「カンボジアの国王は、関税すなわち輸出入品の税を取らないが、ただ同地に来る外国人、すなわち他の国民が少しも強制されることなく、自らの発意によって、貿易のためおよび敬意を表するために、陛下に呈する贈物を受け取る。」
とあり、この点を明確に記している。

2013年6月9日日曜日

東京国立博物館東洋館 フランス極東学院交換品

東京国立博物館東洋館
フランス極東学院交換品
TOKYO NATIONAL MUSEUM
Acquired through exchange with l'Ecole francaise d'Extreme-Orient

Gate plate

 

 ヴィシュヌ立像
Standing Vishnu
Prasat Olok
Angkor period, 12th century


サング
Singha
Terrace of the Leper King
Angkor period, 12th-13th century


ナーガ形飾り金具
Finlal for a Shaft in the Shape of Naga
Bakong
Angkor period, 12th century


リンテル
Lintel
Prasat Kduong
Ankor period, 12th century


黒褐夕釉象形容器
Elephant-shaped Vesel, Dark brown glaze
Khmer
Angkor period, 12th-13th century


女神立像



 4月に上野近くのマンションに引っ越した。自室から徒歩15分圏内で美術館や博物館、東京大学などに行ける。上野動物園入口は歩いて30秒だ。これからは、年間パスポートを購入して、暇なときクメール美術を見に行こうと思う。

2012年11月26日月曜日

カンボジアと日本人


0章はじめに 
 近年、カンボジアへ旅行に行く日本人は増加傾向にある。内戦終結後、安定手的な経済発展とともに、観光地として環境整備されてきたためであり、また、人的交流もさかんになりつつある。私たちがカンボジアを訪れる2013年は、プノンペンに初めて日系ショッピングモールができるなど、日系資本の本格参入の年とされている。では、このようなカンボジアで日本との関係はいつどのように始まったのだろうか。今回は、日本人を通してみたカンボジアについてまとめてみる。なお、時代をいくつかまたぐので、中世、近代、現代(独立後)、現代(和平後)にわけた通史とする。

1章 中世
1.はじめに
 16世紀、カンボジアには、政治都市プノンペンと貿易都市ピニャールーの二都市に日本人街が形成されていた。ここでは、胡椒などを求めて朱印船貿易が活発であった。残念ながら、それらの痕跡は、全く残っていない。
 一方、16世紀のスペインとポルトガルの宣教師による史料に、カンボジアで日本人の記録がでてくる。この時代、カンボジアにおいても、カトリックの布教が試みられており、最初に入国した宣教師は、1555年に訪れたポルトガル人ドミニコ会士ガスパール・ダ・クルスとされる。その後、多くの宣教師、商人、征服者がカンボジアに入り、様々な活動を行った。それらに伴って、その背後で影響を与えていた日本人について記録をみることができる。

2.交易と日本人
 16世紀末、カンボジアの輸出品は、米、畜肉、魚、皮革、象牙、蝋と漆であった。輸入品は、織り糸、特に絹、朱砂、硫黄、水銀、銅、鉛と磁器などであった。王は、これらの商取引を統制していたが、取引そのものは全面的に中国人の手中にあり、それにプノンペン近辺に居住していた日本人がかかわっていた。

3.宣教師と日本人
 最初に記録がでてくるのが、1584年、マラッカのドミニコ会に所属するダゼベド神父によるものである。当時、カンボジアにおいて、宣教師は迫害を受けていた。カンボジア人は改宗する必要を感じておらず、また、僧侶による反発も大きかった。そのため、彼の小さな教会の信者はチャム人、日本人、ポルトガル商人など外国人ばかりだった。
 他方、日本人は積極的にカトリックへ改宗したわけではなかった。それを物語るのが、1600年前後に起きた宣教師の殺害である。カンボジアで活動した最後のマラッカのドミニコ会の宣教師グループに入るデ・フォンセカ神父は、ミサをあげているとき某日本人によって殺害された。理由は、その日本人の妻を改宗されたからであった。でも、これは致し方ない。

4.スペインによるカンボジア侵略と日本人
 16世紀末、弱体化したカンボジア王国は、西洋人よる個人的な介入を受けていた。個人的とは、国家や宗教などの組織的な支援なくして、カンボジア王国へ政治的な介入を行っていたことを意味する。ポルトガル人ベロソとスペイン人ブラス・ルイスである。彼らは、カンボジア王が宣教師を商取引に利用したのと同様に、今度は、マラッカの政治的支援を得る交渉に利用するために、親衛隊として、サータ王の身近に置かれた。
 1594年、シャムがカンボジアを攻略し、それに乗じて起こったクーデターによって、サータ王は失脚した。ベロソとルイスは、サータ王の王位奪還のため、スペイン領マニラにカンボジア遠征を要請した。そして、フィリピン臨時総督ルイス・ペレス・ダスマリナスの決断により、1596年ファン・クスアレス・ガリィナト将軍のカンボジア遠征が行われた。しかし、その遠征は失敗に終わり、その年の7月にプノンペンを離れた。
 その帰路、事件は起きた。ベロソとルイスは、ガリィナト将軍を説得し、ベトナムに立ち寄って、接収された大型船の返却を求めさせた。ガリィナト将軍は、ベトナム側のグエン=ホアンに使者を出し、カン・トリーに停泊した。グエン=ホアンは、その内容に腹を立て、スペイン人をその場で攻撃せよと厳命した。その命令が届いた、93日、その旅の途中で立ち寄った日本人とカスティーリャ(スペイン)の水夫たちの間で殴り合いのもめごとが起きた。ベトナム人と日本人は組んでガリィナト艦隊を襲撃しようと企てたが、裏をかかれて失敗に終わった。翌94日、スペイン人たちは、あわてて出港し、マニラに帰還した。
 ここに記されていることを要約すると、カンボジア遠征に失敗したスペイン船は、居合わせた日本人との揉め事に起因する襲撃を避けるため、たまたま出港し、ベトナムによる攻撃をさけられたのである。

5.地方長官となった征服者と日本人
 サータ王の死後、ベロソとルイスはその息子のバロム・レアッチア二世を王位に就かすことに成功した。その見返りとして、白人でありながら、1598年、二人はバプノム地方とトレアン地方を与えられ、プーサット、コンポン・スヴァイ、トゥバウン・クムなどの地方から税収入を個人で享受していた。国家が外国人個人に対して、領土を分割したようなものである。
 この少し後の1599年、1隻の日本船がプノンペンに着いた。なぜか、指揮を執っていたのはスペイン・ポストガル混血のゴーベアであった。船上には、軍人で冒険家のアントニオ・マラベールの姿があった。マラベールは、1596年にフィリピンからヌエバ・エスパルタへ向け出発したが、乗っていたガリオン船「サン・フェリペ」が日本沿岸で沈没し、長崎で暮らしていた。その長崎で、シャムへ行くというゴーベアに出会い、その途中、ベロソに会いにやってきたのである。そして、マラベールは、ベロソと組んで一旗あげる可能性を試そうとした。
 1599年、ベロソとルイスはスペインなどの支援のもと、カンボジア王バロム・レアッチア二世と正式な保護条約交渉に入った。しかし、それにより王の一族や高官たちの反感を招き、緊張が高まった。その時、スペイン人たちは、小部隊と民間人ともにプノンペン近郊の中国、日本、マレーなどの外国人居留地に隣接した臨時野営地に陣取っていた。ベロソとルイスがスレイ・サントー都城で王と交渉していたとき、ルイス・オルティス少尉とラクサマナの部下のマレー人との間で暴力事件が起きた。留守を守る臨時野営地の指揮官ビリャファーニェは、負傷した同胞をかばい、長崎から来たゴーベアと日本人たちの支援でマレー人駐屯地を包囲した。急を知らされたラクサマナは、部隊を召集し、カンボジア人をあおり立てて、スペイン人をその野営地と船に閉じ込めてしまった。ベロソとルイスは、王の忠告を無視し、仲間の救出に向かい、結局仲間と一緒に非業の死を遂げた。この闘いで西欧人はほとんど殺されてしまった。
 このプノンペンの惨殺によって、これ以後、スペインによる支配の終焉を意味していた。また、その過程で、日本人が関係していたのだった。

6、日本人の聖地「アンコール・ワット」
 水戸の彰考館には、「祇園精舎」と題するアンコール・ワットの平面図が所蔵されている。この絵図面の研究は伊東博士によって紹介された。大きさは縦68.45cm、横75cm の紙に描かれ、建築物を墨で表わし、水には青、彫像には黄などの色を施した立派な絵図面である。この絵図面には、「アンコール・ワットの十字回廊に4千体の金彩色仏があると記されている。これは、カンボジア人がプリヤ・ポアン、つまり千体仏と呼んでいるところに違いない。その絵図面には、「此君堂蔵本」の印が押されている。此君堂とは立原翠軒のことであり、彼は後に彰考館の総裁となり、文政6年(1823 年)3 14 日、80 歳の高齢で没した。藤原忠奇がこの絵図面の裏側に裏書を書いたのは、安永元年(1772 年)である。翠軒43 歳の時であった。両者の直接的な対面または文通がなかったとはいいきれない。おそらく現存する祇園精舎絵図とその由来を書いた裏書は翠軒が写させ、彰考館に保管したものであろう。この絵図面は藤原忠寄の祖父忠義が、長崎において通辞つうじ某から写し取り、少なくも2度の転写を経たものということになる。原図の製作者は長崎の島野兼了で、製作は、海外への渡航が禁止される1636年以前である。
 島野兼了はオランダ船でカンボジアへ上陸した。本人はインドのマガダ国、また、アンコールをジェタヴァナ「祇園精舎」だとだと思い訪れた。祇園精舎とはインド中部の釈尊(Saka-muni=BC566 頃~BC486 )が修行した僧坊のことである。17世紀初頭の日本では、マガダ国も祇園精舎も南天竺のシャムとカンボジア方面にあると言い伝えられており、カンボジアで暮らしていた日本人にとって、アンコール・ワットは、よく知られた存在であった。
 この史実を裏付ける文献で、アドゥアルテが書いた「歴史」の中のマニラ・ドミニコ会士の話がある。修道士たちは、1603年、イニィーゴ・デ・サンタ・マリア神父の案内でマニラに到着、1604年頃までカンボジアで働いた。アドゥアルテによると、布教した宣教師たちは一人の日本人が到来するのを見た。その日本人は、「阿弥陀仏と釈迦に詣でる旅で訪れたのであり、片方はシャム、もう片方は、カンボジアで生まれたと聞いた。」としている。この敬虔な参拝者は、アドゥアルテに従えば、カンボジア人を「品行が悪く、野蛮で教養もなく堕落している」とみてとって非常に衝撃を受け、衝撃的にカトリックへ改宗してしまったとしている。当時も今と同様な印象をカンボジア人から受けていたようだが、この日本人参拝者がいたという報告は、アンコール・ワットに描かれた森本右近太夫一房の墨書や島野兼了の「祇園精舎」の思想を確証するものである。17世紀初頭アンコール・ワット詣でが盛んであったのだ。

7.近代のカンボジアと日本
 ポスト・アンコール期において、日本人がこれ程カンボジア王国に影響を与えていたことは、あまり知られていない。16世紀末から17世紀初頭にかけて、カンボジアにいた日本人は、政治的にポルトガル人やスペイン人たちの傍らで重要な役割を果たしており、また、経済的にも大きく活躍していた。カンボジアと日本との往来も盛んで、朱印船貿易によって、プノンペンやピニャールーなどの日本人町ができていた。また、そこの日本人によって、「祇園精舎」としてのアンコール・ワットの噂が本国まで伝わり、わざわざ、アンコール・ワット詣でが流行っていたのであった。また、これらは、民間の活動であったが、公的な活動として、1603年、1604年の日本船カンボジア派遣があり、カンボジア王ソルヨポールが16055月に日本の天皇陛下宛てに親書を送っていたと、フランス人学者ノエル・ペリは発表している。
 私たちは、カンボジアの遺跡としてアンコール・ワットを訪れているが、実は、400年前は、日本人の心の聖地であったのである。また、両国の王家の交流など、眠っていた歴史が少しずつ明らかになりつつある。
「祇園精舎」と題するアンコール・ワットの平面図

森本右近太夫の墨書
 

2012年11月10日土曜日

最初にアンコール・ワットを訪れた日本人たち

最初にアンコール・ワットを訪れた日本人たち

(1)有名な森本右近太夫一房の墨書
 17世紀初期、アンコール・ワットを訪れた日本人がいた。肥後の松浦藩士の森本右近太夫一房であり、記録として残っている日本人としては、5番目に古い参拝者である。右近太夫の父の義太夫は、加藤清正の家来であった。右近太夫は、その父の菩提を弔うために、当時、平家物語に出てくる「祇園精舎」だと信じられたアンコール・ワットを訪れたのである。右近太夫は、寛永8年(1631 年)の暮れから9年(1632 年)の正月の間に、松浦藩の朱印船に便乗してカンボジアに到着し、寛永9年(1632 年)、アンコール・ワットの十字回廊に、「父の菩提を弔い老母の後世を祈るため」と記した次の文章を豪筆している。

1 森本右近太夫一房の墨書

寛永九年正月ニ初而此処来ル生国日本
肥州之住人藤原朝臣森本右近太夫
一房御堂ヲ志シ数千里之海上ヲ渡リ一念
之胸ヲ念ジ重々世々娑婆浮世ノ思ヲ青ル
為ココニ仏ヲ四行立奉物也
摂州津西池田之住人森本右近太夫・・・・・・・・
家之一吉○裕道仙之為娑婆ニ・・・・・・・・・・
茲ニ盡ク物也
尾州之国名黒ノ郡後室○・・・・・・・・
老母之魂明生大師為後生・・・・・・・・
茲ニ盡物也
                 寛永九年正月卅日

(2)17世紀のアンコール・ワットと日本
 右近太夫の訪問期というのは、ポスト・アンコール期にあたり、1431年のアンコール朝崩壊後、アンコール・ワットは上座仏教寺院に衣替えした時代である。、ポスト・アンコール期の偉大な王、アン・チャン1世(154676年)はアンコール・ワットを修復し、それ以後、各王がアンコール都城の復興を行い、住民の移住を奨励した。ちょうど同じ頃、西欧の宣教師たちも、この旧都の様子を書き残している。
 一方、日本では徳川家康が慶長8年(1603 年)に幕府を開いた。その時代、外国と日本との往来も盛んで、数多くの日本人が朱印船貿易によって現地へ赴おもき、日本人町を形成していた。カンボジアには、プノンペンと貿易港ピニャー・ルーの2ヶ所に日本人町があった。また、当時の日本人はこの東南アジア地域を南天竺と考えていた。
 しかし、右近太夫がアンコール・ワットを参詣した3年後の寛永12 年(1635 年)には、鎖国の方針が打ち出され、渡航禁止と帰国日本人の踏み絵が発表された。右近太夫は鎖国前のこうしたあわただしい雰囲気の中で帰国したようである。それと時を同じくして、1632 年加藤家は改易となり、すでに肥後(熊本)は細川藩に変わっていた。右近太夫は、松浦藩に仕えた後、父義太夫の生誕の地である京都に移り住んでいた。京都の寺で発見された墓碑には、父義太夫の法名のみ刻み込まれ、森本の俗名はない。しかし、位牌には森本義太夫が1651 年に没し、森本佐太夫(右近太夫)は1674年に没したとある。右近太夫は海外渡航時に使用した実名を隠し、厳しい鎖国令に対して社会的に身を隠す必要があった。そのため、右近太夫が改名し、佐太夫を名乗ったのである。また、森本家の子孫が新たに仕えることになった細川家に対する配慮もあった。

(3)森本右近太夫一房についての伝聞
 森本右近太夫一房の没後も松浦藩にはアンコール・ワットが伝えられていた。平戸の松浦藩主松浦静山の随筆集『甲子夜話』正篇巻21 の中に右近太夫の記述がある。

「清正の臣森本義太夫の子を字右衛門と称す。義太夫浪人の後宇右は吾天祥公の時お伽とぎに出て咄はなしなど聞かれしとなり此人誉て明国に渡り夫それより天竺に住たるに彼国の堺なる流砂川をわたるとき大魚を見たるが、殊ことに大にして数尺に及びたりと云夫それより檀特山に登り祇園精舎をも覧てこの伽藍がらんのさまは自ら図記して携還れり。今子孫吾中にあり正しくこれを伝ふ然ども今は模写なり。」

 『甲子夜話』は文政4年(1821年)11 月甲子の夜に筆を起こし、天保12 年(1841 年)6月に死去するまでの、20年間にわたって書き綴られたものである。ここにある「ここより檀時山に登り祇園精舎をも覧て」とは、「ここより中央嗣堂に登りアンコール・ワットを一覧した」ということである。また、これらの記述から、右近太夫によるアンコール・ワットの絵図が松浦家中に残されていたことを示している。

(4)アンコール・ワットを訪れた日本人たち
 この他、アンコール・ワットの十字型中回廊の壁や柱などには、日本人参詣者の墨書跡が15ヶ所残っている。判読できるこれら落書きの年代は慶長17年(1612年)から寛永9年(1632 年)まで20 年間のものである。この時代は、朱印船の活動が活発であった時代であり、墨筆者は朱印船に搭乗した人たちであった。例えば、慶長17 年(1612 年)度の墨書には“日本堺”と記すものが多く、同地の商人によって送り出された船に乗っていた団体旅行を行ったの人であった。また、朱印船には船の運航に必要な船員の他に、便乗商人というべき客商も少なからず乗り組んでいた。彼らは寄航地において独自に貿易を行ったが、船の商品の上げ下ろしには直接関係がないから、次の出航までの問を利用してアンコール・ワットに詣もうでることも可能であったろう。肥後国の安原屋嘉右衛門尉は、これら客商の一人であった。
また、墨書にある地名として「泉州堺」と「肥前」「肥後」、さらに解読が難しいが「大阪」らしき地名が現れている。つまり、渡航者は平戸、長崎、肥前の出身者が多く、次に堺および大阪商人であった。
 これらの墨書の位置を図2に示す。



2 日本人墨書の位置(十字回廊付近の拡大 ①が森本右近太夫一房の墨書  
 以上、これらの多くの日本人の痕跡がアンコール・ワットに存在し、カンボジアと日本との意外な関係があった。しかしながら、残念なことに右近太夫の墨書は、1970年代の内戦時、ポル・ポト派によって墨で塗り潰されてしまった。そのため、現在は大変読みづらいものとなっている。

2012年9月21日金曜日

アンコール・ワット建立の説話

 エティエンヌ・エイモニエの著書に載せられたプレアハ・ケート・ミアリアによるアンコール・ワット建立の説話、1961年、プノンペンの仏教研究所が刊行する『カムプチュア・ソリヤー(Kambuja Suriya)』誌の連載より、以下、説話の梗概
仏暦600年、上海にルム・セーンという人物がいた。彼は、花売りとして貧しい生活をおくっていた。ある日、インドラ神の天界から、天女たちがルム・セーンの花畑へ遊びに来た。そのとき、天女トゥップ・ソタチャンは、花を6本摘んでしまったことから、罰として6年間下界に住み、ルム・セーンの妻になるよう命じられた。
 1年後、2人の間には男の子が生まれ、地面に絵を描くのが好きなことから、「プレアハ・ピスヌカー」[建築の神ヴィシュヴァカルマン(Visvakarman)に由来]と名づけられた。プレアハ・ピスヌカーが5歳になった時、6年の罰則期間が過ぎて、トゥップ・ソタチャンは天界へ帰っていった。ル
ム・セーンとプレアハ・ピスヌカーは、悲しみにくれた。 そのころ、カンボジアでは王が逝去し、王座は空位になっていた。そこで、インドラ神は自らニワトリに変身し、その肉を食べたものを新王として即位させることに決めた。ゾウ遣いのティアと妻ヴォーンがそのニワトリの肉を食べたところ、王の選定のために王宮から放たれたゾウは、彼ら2人のもとへ来た。さらに、王妃となったヴォーンの枕元にインドラ神が現われ、ヴォーンの身体に花環を落としていった。王妃は懐妊し、月満ちて男の子を産んだ。王子は、「プレアハ・ケート・ミアリア」[「輝く花環」の意]と命名された。
 一方、プレアハ・ピスヌカーは母を失った悲しみが癒されず、母探しの旅へと出掛けた。野を越え、山を越え、たどり着いた丘の上で、プレアハ・ピスヌカーは天女たちを目にした。彼が姿を見せても、1人だけ逃げない天女がいた。彼女こそ母トゥップ・ソタチャンで、ここに母と子は再会を果たした。トゥップ・ソタチャンに連れられて天界へ赴くと、プレアハ・ピスヌカーはインドラ神の計らいで、天界の絵画や彫刻の技術を学ばせてもらった。
 インドラ神は成長したプレアハ・ケート・ミアリアの姿を見ようと思い、彼のもとに降臨した。自らが父であることを明かしたインドラ神は、彼を天界へと連れて行き、天の宮殿を見せた。「お前をカンボジア王にして、天界の宮殿と同じものを地上に建ててやろう」とインドラ神は約束し、プレアハ・ピスヌカーを呼び出して、地上に宮殿を建てるよう命じた。
 仏暦620年、プレアハ・ピスヌカーは彫刻がふんだんに施された宮殿を建てた。その宮殿が、現在まで伝わるアンコール・ワットである。
 宮殿にたいそう満足したプレアハ・ケート・ミアリアは、プレアハ・ピスヌカーに鉄180キロを与えて、剣を作らせた。プレアハ・ピスヌカーは鉄を鍛えて、鋭利で小さな剣を作った。だが、ププレアハ・ケート・ミアリアは、完成した剣が小さいのを目にして、プレアハ・ピスヌカーが残りの鉄を着服したのではないかと疑った。疑われて腹を立てたプレアハ・ピスヌカーは、剣をトンレ・サップ湖に投げ捨て、故郷の中国へと帰っていった。
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出典:「アンコールの近代」