カンボジアと日本 ~中世の朱印船貿易を通じた交流~
前回、カンボジアでの日本人の政治的な関わりをまとめた。そこには、西欧による軍事介入の歴史があり、そこに、日本人も関与していたことを記した。なぜ、その事実があまり知られていないのか。それは、カンボジア人が民族の歴史を自分たちで正確に伝えられなかったからである。もちろん、文献による日本との交流の記録は、カンボジア側にはほぼない。この章では、日本人の経済的な関わりを通して、消えかかったカンボジアの歴史をまとめる。
近年、カンボジアへの輸出額は増加傾向にあるが、これは政治的な安定とともに、人的交流が活発化しているからである。それ以前は、内戦以外の時代であっても、それほど貿易額は大きくなく、戦後のカンボジアとの経済的交流はいまほど多くはなかった。しかし、遡ること400年あまり、日本との朱印船貿易が、カンボジア経済に強い影響力をもっており、転じて政治的な介入も行っていた時代があった。当時、その朱印船は日本側にとっても重要な品を扱っており、また、その取引で大きな利益を上げていた。今回、その根拠となる文献を引用しながら、その当時の日本人の役割を明らかにしてみる。
1章 朱印船とは
1-1 初期の朱印船
意外なことに、カンボジアと日本の貿易は、朱印船制度の創設初期にあたる文禄年間(1592~1596)から行われていた。朱印船の始まりは、豊臣秀吉が、海外に渡航する商船に対して朱印状なる渡航免状を発給したことによる。文禄年間の初めに、京、堺、長崎の船へ南方各地渡航許可があったが、誰もが自由に公認貿易を行えた訳ではなかった。これに関して『長崎拾芥』に、
「往昔は異国に渡ること、遣唐使其の外の船にて渡航ありしが、唐造の船にて商売の為渡海の事は、文禄元年壬辰年より広南(クアンナム、ベトナム)、柬埔寨(カンボジア)、東京(トンキン、ベナム)、六昆(リゴール、タイ)、太泥(パタニ、タイ)、東寧(トウネイ、中国)、呂宋(ルソン、フィリピン)、亜媽港(マカオ、中国)、暹羅(シャムロ、タイ)の国々にいたる。之依、秀吉公、権現様、台徳院様より御朱印頂戴、文禄元年より寛永11年迄43年の間、年々渡海仕、商売之利潤余り有り、世の人争ひ往んと思へとも、御免の者制限之有。」
とあり、初めて、文禄元年(1592)秀吉が南方渡航船に朱印状を与えて以来、寛永11年まで大いに発展し、希望者が多いにもかかわらず、特定の物に制限されたことを伝えている。
1-2 朱印状とは
ここで、朱印船制度についてまとめる。まず、朱印状を簡単にいうと、政府公認の貿易証書であり、また、他国に対して貿易船へ保護扶助を与えるように要請したものである。現代で言えば、税関による輸出申告、輸入申告の許可の要素に加え、船籍証明書を意味する。正確に、朱印状異国渡海御朱印状の意味とは、海外に渡海する貿易船に下付した朱印状で、発給側から内外2方面の性格が与えられ、受給者側もその効力を期待した。国内的性格として、海賊や密貿易船と区別して、政府特許の正当な貿易船として立証するためで、その貿易営業を特定の受給者に許可し、かつ貿易地も指定して下付したものである。対外的性格として、広大な国外水域や港湾における航海の安全と、便宜を供与することが期待されていたものである。
豊臣秀吉の創設した朱印船制度は、秀吉によるフィリピン征討問題と通商条約締結へ向けた動きなどの内外各方面の情勢に促されて、文禄元年(1592)に発足整備された。その後の徳川氏の朱印船制度は、江戸幕府成立以前の慶長6年(1601)から開始された。
2章 カンボジアへの渡航
2-1 朱印船の記録
記録が残っている下付された朱印状は、慶長9年(1604)から寛永12年(1635)までで44通であった。これは、江戸幕府が慶長9
年(1604)から第4回鎖国令が出される寛永12年(1635)までの約30年間に下付したのが356通であるので、その約8分の1にも上る。隣国の台湾などとの距離や政治状況を含めて考えると、カンボジアへわざわざ危険を冒してまで貿易する価値が大きかったことを表している。また、慶長中期に頻繁に訪れていたことが判る。この時代から取引が活発に行うことができていことから、円滑な取引の仲介を行う組織が、すでに成立していたに違いない。それは、後に述べる現地の日本町がすでに形成されていたことを案じさせる。
また、カンボジアとの貿易は、密航が行われるほど魅力的なものであったようだ。幕府は、海賊と区別するために朱印状の下付を一部の者に制限されていた。そのため、認可されないものが、幕府の朱印船制度を蹂躙した脱法行為を行っていた。1629年12月14日(寛永6年)オランダ商館長が平戸から出した書信中に、
「この船は カンボジアに向かい出帆したが、世評によれば皇帝のパスを所持せず、ただ采女殿の許可証を携えていた。」
とあり、将軍の渡航朱印状に代わる他の特定大名の出したパスが使用されていた。
2-2 欧州人による記録
カンボジアへの貿易船の消息は、欧州人の航海記等にも伝えられている。イギリス船ジェイムス・ロイヤル号の航海記 1620年12月22日の条に、
「金曜日。本日オランダ人ヤン・ヨウルソン(Jan Jowlson)に属して、カンボジアに向かう長崎の一ジャンク船に遭遇した。予は同船の船長に甲板上でのパスポートの提示を求めて、それが日本皇帝のゴション(Goshon)であることを認めたので、予は彼に直ちに出帆することを許した。」
とあり、女島沖でカンボジアへ航行している日本の朱印船でオランダ人航海士ヤン・ヨーステンの船に出会っている。また、コックス日記には、1618年度カンボジアの朱印船が2船載録されている。さらに、1624年1月3日(元和9年11月3日)付、東インド総督ピーテル・デ・カーペンチール(Pieter de Carpentier)ならびに参議員から東インド会社重役に送った一般政務報告の中に、
「カンボジアから3隻」長崎へ帰航したことが記されている。
1605年(慶長10年)の末、イギリスの当方派遣艦隊司令官エドワード・ミチェルボーン(Edward Michelborne)の配下の一船長ジョン・デヴィス(John Davis)の航海記によると、彼がシンガポールの南ビンタン島に近い一小島からパタニに航行中邂逅した日本船について、次のように記している。
「12月27日予が当地から太泥に針路を向けた時、1隻の日本船に邂逅した。同船はシナとカンボジアの海岸を掠奪して来航したもので・・・・・同船は70トンに過ぎず、乗組員は90人であって、船員としては武張り過ぎた風があり、彼らの仕事は全く同等でいずれも同輩のように見える。それでも彼らの間に一人のキャプテンと呼ばれる者がいることはいるが、彼らはほとんどこれを尊敬していない。」
とあり、この場合、海賊船で朱印船とは認めがたい。
これらは、カンボジアへ向かった船の様子を伝えてくれるものであり、また、西欧諸国も報告書に記すなど、日本の貿易船に関心を払っていたことを示している。
まず、朱印船の渡海日数について、後に記載する二世三浦按針の朱印船は、1936年5月末日にカンボジアを出帆して、7月27日に長崎に帰航している。その所要日数は57日になる。一方、『通航一覧』に引用している『正事記』によると、
「長崎の町人伽羅屋森助次郎といふもの、カンボジアに渡りたる物語しけるは、長崎よりカボチヤの川口迄の積り、日本道千八百里の所を、日数十九日に行たり、川口よりカンボジアの船着迄、幅日本道の積り三十七、長さ五百里の大河を、日数六十日にのほる、流れ早き故に手間入りとなり、・・・・其国甚あつし、助次郎二月に行着けるに、着て廿日程はたかになりて、扇子はなさす、目もくらむやうに堪かたく覚ゆ、廿日程過ては、暑になれ左様にもなかりしと也。」
とあり、森助次郎の便乗船は長崎出帆後79日かかっている。この差22日は、メコン河の遡航と下航に要した日数差であろう。
次に、欧州船の渡海日数は、カンボジア発日本行で、1637年航行したハレヤス号で41日、1643年航行したオランジボーム号も41日、日本発カンボジア行で、1641年航行したロッホ号で67日かかっている。このロッホ号は1642年1月9日に台湾からカンボジアのメコン河口に達し、80マイル航行して同月25日目的地に到着投錨するまで17日を要し、日本出帆以来通算68日かかっていた。ここで、カンボジアより日本に航した際に比べて相当日数に開きがあることを示しているのは、西欧のガレオン船と、日本のジャンク船をベースとしてガレオン船の融合帆船との性能の違いであろうか。
2-4 カンボジアでの取引環境
カンボジアにおいては、課税がなかったようである。ただし、土地の主権者、貿易関係高官や港務貿易担当者に対して、相当多額の贈物を使って貿易の円滑な遂行を計らねばなかった。オランダ人が1622年10月頃受け取った同国現状報告の中に、
「カンボジアの国王は、関税すなわち輸出入品の税を取らないが、ただ同地に来る外国人、すなわち他の国民が少しも強制されることなく、自らの発意によって、貿易のためおよび敬意を表するために、陛下に呈する贈物を受け取る。」
とあり、この点を明確に記している。
3章 朱印船を支えた要素
3-1 朱印船乗組員
日本からカンボジアへの航海では、日本人の航海士のみならず、欧州人航海士が活躍した。その一人がオランダ人航海士フランソワ・ヤコブセンであった。
『バタヴィア城日記』によると、同船は長崎奉公竹中采女の船で、同年1月23日バタヴィア港に曳船され、この指令の翌6月27日同港から出帆して日本に向かっていて、日本船の同港入港は稀有の例であった。これより先、同日記同年4月14日の条を見ると、
「同月14日閣下はカンボジア船から舵手フランソワ・ヤコプセン(Fransois Jacopsen)の手紙を受け取ったが、この舵手は、平戸の殿の所有の一日本船で同地に到着して、閣下に詳細に報告した。
とあり、カンボジアに航した松浦氏の商船のオランダ人按針は、その姓名さえ判明する。
しかるに『平戸オランダ商館日記』の翌1633年9月13日(寛永10年)の条には、
本月13日東京から角倉船(Suminocqure)に乗船した舵手フランス・ヤコブセン・フィッセル(Frans Jacobssen Visser)の報告を受け取ったが、同地における貿易事情を次の如く報告して来た。」
とある。松浦船の按針手フランソア・ヤコプセンと角倉船のフランス・ヤコブセン・フィッセルとは同一人であろう。彼は按針を定職として随時諸家の朱印船に傭聘されていた。
また、モルガの『フィリピン郡島誌』には、ちょうどその頃交易のため長崎からカンボジアのメコン河を遡って貿易港チョルドムク(Chordemuc)、すなわち現今の首府プノンペンに来航したポルトガル人の1船について、
「同じ頃、ポルトガル人と日本人の混血児で日本に在住していたゴヴェア(Govea)は、長崎港で手に入れたジャンク船に、混血児若干や日本人、ポルトガル人を乗り組ませて、貿易投機のため、シナ海岸、チャンパとカンボジアに向かって出帆した。」
と述べており、日本在住のポルトガル人の船に日本人船員も乗り、カンボジアへ渡航していた。ちなみに、このゴーベアは、カンボジアで騒動を起こした人物である。
このように、朱印船に乗り組むのは、船長以下、按針航海士、客商、一般乗組員らで、航海士には中国人、ポルトガル人、スペイン人、オランダ人、イギリス人が任命されていた。
3-2 カンボジアとの貿易品
寛永の鎖国以前に貿易家の手記に基づいて作成された『異国渡海船路の積』などの諸書によると次の通りである。
輸出品
銅、鉄、所帯道具、扇子、傘、硫黄、樟脳、薬鑵
輸入品
鹿皮、漆、象牙、蠟、蜜、黒砂糖、水牛角、犀角、檳榔子、大楓子、胡椒、鮫、孔雀尾、木綿、鬱金
である。また、前出の東インド総督アントニオ・ファン・ディーメン(1636年)の中に、
「カンボジアには、日本向け商品の在庫がない。1635年将軍の渡航免状を携えて長崎から同地に渡航して同年柬埔寨に滞留していた日本人らが、一切買い占めて、前述のように本年5月末日500トンの1ジャンク船で、鹿皮7万枚、漆3万斤、ならびに若干の蠟、象牙、胡桃などを日本に輸送した。」
また、1634年11月24日平戸のオランダ商館長ニコラース・クーケバッケル(Nicolaes Couckebacker)がバタヴィアに送った報告中に、
「去る2月末朱印状6通下付された。2通は東京、2通はコーチシナ、2通はカンボジア宛であった。3月に1船は資本100貫目と樟脳、日本着物その他の小間物などの商品30貫目を積んでカンボジアに向かい・・・・前記の船はカンボジアから鹿皮約4万枚、その他鮫皮、蝋、蘇木、漆、錫、象牙およびカンボジア胡桃等をもたらし」た。
以上のように、カンボジアから主に粗製原料を輸入していたことが判る。
輸入品のうち、錫は、すでに前世紀の半頃からも盛んに銃弾用として輸入されたものである。また、鹿皮については、カンボジアをはじめとする朱印船によって年間7万枚から25万枚輸入された。当時の朱印船以外の鹿皮も含めた総輸入量を30万枚を1年間の限度に近い数字とすると、16万枚でその5割余り、25万枚で8割余りに当り、朱印船が鹿皮の取引において断然優位を占めていた。カンボジアへ銅、鉄、硫黄などの鉱産物や、樟脳の外、その大部分が雑貨や工芸品であった。これは当時の社会事情の相違、特に工業技術の大きな開きが貿易に反映したものであった。
3-3 カンボジアへの朱印船貿易家
朱印船制度を通じて、貿易家は、商人、大名、武士、明人、西欧人に分けられる。このうち、カンボジアへの貿易家は、大名と商人である。
大名として記録にあるのが、次のものである。慶長10年(1605年)、筑後の原弥次右衛門は、安南(北ベトナム)とカンボジア宛に朱印状を得た。その縁故で、カンボジア国の使節が薩摩に来朝した際、弥次右衛門が案内斡旋している。この弥次右衛門の船の場合、所有主は島津氏で、貿易家原弥次右衛門等がこれを借り受け、島津氏に傭船料を支払っている。
一方、カンボジアの貿易家の大部分は商人であった。それは、カンボジアなどへ朱印船貿易を行うためには、巨費を出資してくれるパトロンが必要であったためである。さらに言えば、その役割を担ったのが、銀座年寄と呼ばれる豪商たちであった。彼らは、自身のもつ特権によって、銀貨を運用し、その運用益を得ていたのである。朱印船貿易は、その手段のひとつであった。当時、朱印船をはじめ対外貿易において、もっぱら銀貨が決済に充当されていており、豪商たちが巨額の銀貨を準備できる背景は次のことからであった。
銀座年寄は、幕府の諒解と、その監督保護の下に、諸国銀山産出の灰吹銀や世間の古銀を買い入れる地銀買い集めを本業としていた。また、新たに吹き立てた通用銀などには、常是をして極印を押さしめ、座人は銀貨改鋳請負の代償として、改鋳高に応じて手数料を上納した。また銀買い集めの資本として、幕府から銀座元手銀を三ヵ年越に貸与されたので、その特別な待遇に対する冥加として運上銀をも上納したが、一方全国的な組織を備えて独占的に銀貨の鋳造改鋳を司って生ずる利益を、年寄以下平座人一同に、座分割合をもって階級に応じて配分したので、彼らは莫大な利益を均霑していた。
このような社会的な地位を得ていた豪商たちは、朱印船貿易の銀貨決済という仕組みによって、派船する貿易に容易に進出することができたのだった。また、各地の銀座の年寄等は、緊密な連絡を有しており、主として貿易資本銀の調達やその搬出の監督に当るために設置された長崎の銀座をはじめとして、各地の特権商人が大きな役割を演じていた。
当時、商人の貿易家で主要な人物は次の7氏であった。茶屋氏、末次氏、末吉氏、角倉氏、平野氏、橋本氏、三浦氏である。その内、カンボジアに関ってくるのが、橋本氏と三浦氏である。
まず、京都の橋本十左衛門である。橋本氏は代々十左衛門の名を称し、銀座の年寄として、あるいは平座人として勤め、時には江戸詰にも当っていた。朱印船貿易において、橋本氏の名が初めて出てくるのが、島井家の投銀証文の中、寛永8年カンボジア渡航船橋本十左衛門船に対する本山勘右衛門の投銀についてである。また「寛明日記」中に、寛永9年渡唐の船として長崎から橋本船が渡航したことを伝えており、橋本氏はこの頃頻りに海外へ派船していた。前記と同船である。の「平戸オランダ商館記」によると、寛永11年に海外渡航朱印状を受けた7商人の一人にも橋本十左衛門の名があげられている。橋本家では、家康の命によって一時太田備中守資宗の弟資信が入って家を継ぎ十左衛門と称したが、その年代から、この資信かあるいは同名の後嗣十左衛門であると思われる。
次に、三浦按針である。三浦氏は、イギリス人であるが帰国を許されず、お雪(マリア)と結婚した。。父アダムズ、すなわち按針以来幕府との縁故が深く、家康の外事顧問格の地位もあり、相模国逸見に250石の旗本して領地を有していた。また朱印船貿易をも経営し、アダムズの死後、子ジョセフも按針を称し、事業と領地を継承した。この親子2代の三浦按針が、カンボジア貿易で大きな影響を与えた。
主要な朱印船貿易家の派船をまとめると次のようになる。
4-1 最後の朱印船とその貿易利益
前章では、朱印船の運航を支えた要素について言及した。そして、この章では、カンボジアが頻繁に行われた理由を明きあらかにする。それは、単純に、船が無事寄港し、成功した際に手に入る貿易利益に表現される。
まず、当時の先行投資の最大要因である朱印船の船価は、積量200トンで船価20貫目であった。その朱印船の船価について、因幡の領主亀井玆矩は、慶長12年(1607)に西洋宛、同14年(1609)と同15年度(1610)にシャムロ宛朱印状を受けているが、慶長13年(1608)4月には家臣の塩五郎大夫に命じて長崎で60万斤の貿易船を建造することを命じ、15年にはシャムロ在住日本人握浮●・純広の斡旋で優秀な貿易船を買った。この事蹟を伝えた小倉友賢の『因幡民談』によると、
「亀井武州この利倍を考へられ、我も舟やらんとて、蓄へ給ふ財宝限りなければ、長崎に於いて数十貫目の舟を買ひ、京都、堺にて其の国々へ赴く商売の物、或は刀、脇指、金銀の細工物、京染の小袖、奈良の曝布染、蒔絵の諸道具、絵屏風など色々の物を調へ下し、是を船に積入れ、両郡へ役にかけ、百姓共を舟子とし、シャム、カボチャ、所々に渡されけるに、案の如く売買ことの外利潤ありて、金銀の殖たる事限なし。」
とあり、玆矩は常に自ら朱印船を買入れ、輸出品を調達し、前述のように家臣を船長に任じて船の運航と商品の売買を監督させ、領民を舟子としたようであるから、彼はこの貿易の主要な経営者で、ほとんど独力全額出資したことがわかる。そして一度、渡航が成功すると相当の利益を得ていたことになる。また、木材の品質もよく造船技術も優れていたシャムロで大量の船が現地の日本人の仲介により注文・購入されていたことを裏付けている。
また、別の記録からその投資額を垣間見ることが出来る。それは、オランダ人の不法を訴えた記録で、そこに商船の元手について記載が残っている。元和9年(1623)長崎を出帆して交趾(中部ベトナム)に渡航した荒木惣右衛門(Aracki Soyemon)船に便乗した伊丹四郎兵衛(Itamy Sirobioye)と浅里助右衛門(Asahi Schemon)等は、同地で一小船を雇い、持参した銀資本を同船に積み換えてカンボジアに航する途中、チャンパ沖でオランダ船に拿捕されたが、両人は逃れて茶屋又七郎(Chaja Matastero)の船で帰国し、被害の銀資本55貫620匁4分やその他の商品目録を長崎奉公に提出してオランダ人の不法を訴えた。そうしてみると、これらの客商の携えた資本は相当多額であり、その利益はさらに上がっていたことになる。
さらに、1634年11月24日平戸のオランダ商館長ニコラース・クーケバッケル(Nicolaes Couckebacker)がバタヴィアに送った報告中に、
「去る2月末朱印状6通下付された。2通は東京、2通はコーチシナ、2通はカンボジア宛であった。3月に1船は資本100貫目と樟脳、日本着物その他の小間物などの商品30貫目を積んでカンボジアに向かい・・・・前記の船はカンボジアから鹿皮約4万枚、その他鮫皮、蝋、蘇木、漆、錫、象牙およびカンボジア胡桃等をもたらし、」
とある。カンボジア渡航船の場合、現送資本100貫目の他、総額30貫目の商品を積み込んでいたから、つまりその現送資本は、積荷の総額の3倍余りに当っている。
そして、鎖国直前、カンボジアへの最後の朱印船は、二世三浦按針の船であった。この船は、積荷が一杯になるまでカンボジアに滞在し、帰国後、大きな利益を得たのであった。一方、カンボジア国内においては、この朱印船が本国で利益となる商品は一切合財積み込んだため、一時的に鹿皮など日本向け輸出品の品不足が発生したのであった。
1636年12月28日(寛永13年)、東インド総督アントニオ・ファン・ディーメン(Antonio van Diemen)ならびに参議員等から本社に送った一般政務報告の中に、その様子が記録されている。
「カンボジアには、日本向け商品の在庫がない。1635年将軍の渡航免状を携えて長崎から同地に渡航して同年柬埔寨に滞留していた日本人らが、一切買い占めて、前述のように本年5月末日500トンの1ジャンク船で、鹿皮7万枚、漆3万斤、ならびに若干の蠟、象牙、胡桃などを日本に輸送した。」
とある。この船は、寛永12年(1635)に、ただ一人最後のカンボジア渡航朱印状を受けた三浦按針の子の船である。この二世三浦按針は、鎖国直後最後に多量の商品の輸入を企てたのであった。
その続きとして、同船について他の記述がある。1636年(寛永13年)に同地に渡航したオランダ東インド会社の特派使節ヤン・ディルクスゾーン・ハーレン(Jan Dirckszoon Gaelen)の渡航日記1636年6月14日の条に、
「当地に12ヶ月前日本から皇帝のパスを携えたジャンク船1隻来航したが、同船は鹿皮7万枚、胡桃若干、百斤12両の黒漆3万斤と多量の鮫皮を買上げて、5月末日当地から日本に向かい出帆した。」
とある。5月末同地を出帆して帰航の途についてが、帰着の日については、平戸の「オランダ商館日記」1636年7月27日の条に、
「日本船がカンボジアから長崎に帰着したが、同船は積荷不足のため、同地に一年停留していた。積荷は、鹿皮、鮫皮、漆、カンボジア胡桃、その他で諸経費の外、十割の利をあげたと言われている。」
とあり、投資額の倍の利益を上げたことが記されている。
このように、中世におけるカンボジアへ渡航する理由は、現地の地勢や政治に関係なく、日本国内で準備した資本金を基に、買付けを行い、それを国内にて捌いて多大な利益を上げることであった。
5章 カンボジア貿易の特徴
5-1 カンボジアにおける朱印船優位の理由
カンボジアの港湾において、朱印船は指導的立場を維持した。一度朱印船が貿易港に入港すると市況は頓に活気を呈し、彼らは貿易品を大量に買い付けて母国市場に輸入したので、渡航先の日本向け商品は俄かに騰貴し、終には払底して外来欧米人の取引に多大な支障を来たす程であった。
次に、その優位に取引を行えた理由をまとめる。
イ、朱印船は、海外市場における国際通貨であり、かつシナ人等の熱望する銀資本を豊富に携行して、彼らとの取引を強力適切に推進することができたこと。
ロ、朱印船の渡航先各地には、日本人が多数移住し、奥地各地に分散している土着生産者から、朱印船の帰帆に間に合うように、直接製品を短期間に多量にかつ廉価に買い付け集荷し得たこと。
ハ、朱印船関係商人は、貿易品の市況に精通し、かつ母国市場におけるその売捌きにも習熟して、母国市場と海外市場とを強固に連繋し得たこと。
少なくとも以上3点によって、国家を背景として、その資本、その船舶、その貿易機構において優越している欧州人の貿易に拮抗して、朱印船は一時これを制圧することができて、鎖国によって朱印船が南方の港湾から完全に姿を消すまで、彼らはその脅威から解放されることができなかったようである。
そこですでに早くも1620年3月(元和6年)にイギリス商館長コックスも、東インド会社に、日本や東亜の現状を詳報した中で日本の貿易について、
「日本貿易を主に駄目にするのは、日本の商業をその手中に独占している富裕な金融商人の一団である。従来われわれに日本国中全土にわたって皇帝大御所様から、どこでも通商することを許されていた特権を剥奪されたのも、彼らのせいであった。そして今では現皇帝将軍様によって、平戸と長崎だけに制限され、他の土地は悉く禁止された。それというのも、彼らは皇帝と顧問等の寵遇を大変受けているので、復権を要請しても徒労であった。彼らは前述のように、その欲するところを悉く手に入れるだけで満足せず、平戸や長崎に下って来て、合同して、マニラ、コーチシナ、トンキン、カンボジアやその他有利と思う土地に、ジャンク船を送って、他の外国人のもたらすことができる、あらゆる商品を日本に供給し、そして彼らは、彼ら自身または彼らに喜んで合同しようとする人々以外には、彼らの知っている他の人々や、または他の外国人でも、日本の他のいかなる地方にも、それらを輸送することができないのを承知している。このことは私に日本に対してすっかり恐怖心を抱かせるのである。」
と記したのも、この実情を端的に訴えたものである。
5-2 貿易を優位に行えた背景 ~日本町の形成~
前項のように、朱印船は西欧に比べて優位に取引を行うことができた。その背景として、現地の日本町の存在が大きい。この項は、日本とカンボジアの関わりの中で特に重要な要素であり、当時の社会状況が明確になるものであるから、別項として取り扱う。
6章 カンボジア貿易からの撤退
6-1 朱印船貿易の終結
慶長17年(1612)、切支丹禁制の発布により、海外渡航も禁止されることを指していた。これ皮切りに一連の鎖国政策により、東南アジアで地位を築いた朱印船貿易および日本町は姿を消すことになる。その影響は、対日本貿易および東南アジアにおける貿易取引の主導国の交代を引き起こした。
寛永12年(1636)5月、日本船の海外渡航禁止令が発布されていて、オランダ人が永年手こずった朱印船の貿易が杜絶すると、その影響が広がっていった。1636年1月4日(寛永12年12月)オランダ領のバタヴィア総督府から出した一般政務報告の中に、
「よって彼(将軍)は種々考慮の末、日本人は一切海外渡航船に乗ることを禁じ、仮令交趾シナ(北ベトナム)、広東(中部ベトナム)、またトンキン、チャンパ、カンボジア、マニラ、パタニ、台湾、またはその他いかなる地方にもこれを許さず、かつまた最短期間内に海外から日本人を悉く呼び戻した。そこで、広南における最大にして地位ある貿易商平野藤次郎殿は、銅の穴明き銭で日本人が日頃広南においてこれで多額の利益を挙げていたピッチ、すなわち銭100ラスト余を会社に売り渡すことを申し出たので、クーケッバケル氏も極めて有利な条件でこれを安値で買い入れた。」
と記している。ここの朱印船貿易家中の指導的人物代官平野藤次郎が、かねてより巨利を収めてきた銅銭貿易を、オランダ人に譲渡せざるを得なくなった苦境を伝えている。
そして、オランダ人は貿易の実行方針を確立して、かつて日本が覇権を誇った地盤にオランダ人の商権を拡大することを計った。それは、バタヴィア総督府決議録1636年4月11日(寛永13年)の条に
「日本の皇帝が、死刑をもってその国民の海外渡航を禁止したので、この好機会を利用して、彼ら国民が従来渡航していた地方、なかんずくカンボジアの如く、かつてわれらが貿易を行わなかった地方に、会社の貿易を拡大すべきことに決定した。」
と、カンボジアを強調して記している。
6-2カンボジアのオランダ商館
この影響は、カンボジアと日本人にどのような影響を与えたのであろうか。
上記のバタヴィア総督府の決定後、わずか7日、1636年4月18日には、早くも東インド総督府は、アウデ・ワーテル(Oude Water)とスハーヘン(Schagen)の両船に総額79,810グルデン余の貨物を積み込み、上席商務員ヤン・ディルクセン・ハーレン(Jan Dirksen Gaselen)を特使として柬埔寨に派遣した。その出帆に当って、また左の訓令が与えられた。
「帆船アウデ・ワーテルは、鹿皮より成る日本向け積荷を整え、もし可能ならば、7月末日頃柬埔寨河の州を発して平戸に向かい、商務員ヤン・ディルクセン・ハーレンはまず商務員ピーテル・スウリー(Pieter Soury)に商品の残部を引き渡して、同地において貿易を継続せしめ、またバタヴィアおよび内地各所に必要な米4,5百ラストを購入することに努力せしむべし。右アウデ・ワーテルは、貿易継続に必要な現金および商品を積んで日本から柬埔寨に帰り、同地において米、安息香、赤漆、白荳蒄、蠟等を満載し、商務員ピーテル・スウリーが乗り組んで、なるべく速く当地に帰航すべく、また上席商務員ファン・ハーレンは右スウリーから商品証書、計算書ならびに残品を引き継ぎ、日本向け商品の新規買入れのためカンボジアに滞留すべし。」
すなわちハーレン等は訓令に基づき、カンボジアに赴き、同地日本町の長の斡旋を得て、同国の政府と折衝して日本町の南端に一地を得て商館を開設した。しかし、前出の三浦按針の商船が最後の朱印状を得て同地に渡航し、繋船一年の後多量の商品を買い占めて帰航したため、オランダ商館に残された商品は少なかったが、ハーレンは鎖国後における貿易拡大の希望をもって、商品の買付けに着手した。
すなわち、1636年12月28日付総督府の一般政務報告によると、
「上席商務員ハーレンは、売れ残り商品を有利に捌き、日本向け商品を手配するために柬埔寨に居残ったが、今後の疑いもなく極めて好転するであろう。蓋し日本人は、今までは皇帝の渡航免状を携えて、もってこの非常に有利な貿易を継続していたが、最早われわれの妨げとならないであろう。そこで来る4月再び同地に派船するために準備を整え、商務員ハーレンは、予め、価額13貫1匁半の鹿皮8,500枚買上げた。・・・・・・・・・なお前記ハーレンは、柬埔寨在住日本人から下記の商品を一両3グルデンの相場で、5,527グルデン15スタイフェル10ペンニング受け取ることを契約した。すなわち黒漆正味2万斤を柬埔寨ピコルにつき115匁、シャグマ種210匁、しかして劣等品三種100匁につき130匁である。よって、来る1637年度柬埔寨において日本向け商品はかなり多量に準備されることは明白である。」
とあり、オランダ人は従来カンボジアにおける日本貿易の集荷に当って、朱印船貿易の重要な一翼を担っていた在来日本人と手を握って貿易を営み、爾後朱印船に代わって日本との間の中継貿易を行うようになったのだった。
オランダの感情を端的に示すものとして、幕府の1639年ポルトガル(ガレウタ)船渡航禁止令の発布によって、オランダによる日本貿易独占達成の報に接し、オランダ領のバタヴィア総督府で同年12月10日に祝賀と感謝の催がわざわざに執り行われたことに表される。
7章 カンボジアとの貿易のまとめ
イ、朱印船は多額の銀資本を携えて渡航したが、渡航先各地においてはもっぱら銀が貿易の決済に使用されたから、彼らはその貿易を、自分の欲する有利な条件と方向に展開することができた。
ロ、朱印船は渡航先において貿易品を大量に買い付けたので、その成否は渡航先における貿易品の市価に鋭敏に響いた。また、その市場における貿易品の供給の増減と集荷の遅速にも影響するところが少なくなかった。
ハ、朱印船はもっぱら季節風を利用して往来航行し、晩秋初冬の北風によって南航し、晩春初夏の南風に乗って帰航したので、渡航先における碇泊期間もこれに左右されて短期間に貿易を遂行せねばならなかった。
ニ、朱印船の短期間中における貿易の完遂に対応して、積荷の売捌き、買付け商品の集荷、包装、積込みには、渡航先各地の在留日本人の協力援助に頼る点が少なくなく、その貿易を有利に展開することもできたが、そのためオランダ人等欧州人も押されがちであった。
ホ、移住した日本人の有力者は、同地方の官憲との関係が深く、時には港務・貿易関係の要職を担任したから、彼らは職掌柄朱印船の入港貿易に、土地の官憲と折衝したり、あるいは便宜を計った。
ヘ、カンボジアにおいては、課税がなかったようである。ただし、土地の主権者、貿易関係高官や港務貿易担当者に対して、相当多額の贈物を使って貿易の円滑な遂行を計らねばなかった。オランダ人が1622年10月頃受け取った同国現状報告の中に、
「カンボジアの国王は、関税すなわち輸出入品の税を取らないが、ただ同地に来る外国人、すなわち他の国民が少しも強制されることなく、自らの発意によって、貿易のためおよび敬意を表するために、陛下に呈する贈物を受け取る。」
とあり、この点を明確に記している。