2013年6月9日日曜日

東京国立博物館東洋館 フランス極東学院交換品

東京国立博物館東洋館
フランス極東学院交換品
TOKYO NATIONAL MUSEUM
Acquired through exchange with l'Ecole francaise d'Extreme-Orient

Gate plate

 

 ヴィシュヌ立像
Standing Vishnu
Prasat Olok
Angkor period, 12th century


サング
Singha
Terrace of the Leper King
Angkor period, 12th-13th century


ナーガ形飾り金具
Finlal for a Shaft in the Shape of Naga
Bakong
Angkor period, 12th century


リンテル
Lintel
Prasat Kduong
Ankor period, 12th century


黒褐夕釉象形容器
Elephant-shaped Vesel, Dark brown glaze
Khmer
Angkor period, 12th-13th century


女神立像



 4月に上野近くのマンションに引っ越した。自室から徒歩15分圏内で美術館や博物館、東京大学などに行ける。上野動物園入口は歩いて30秒だ。これからは、年間パスポートを購入して、暇なときクメール美術を見に行こうと思う。

2012年11月26日月曜日

カンボジアと日本人


0章はじめに 
 近年、カンボジアへ旅行に行く日本人は増加傾向にある。内戦終結後、安定手的な経済発展とともに、観光地として環境整備されてきたためであり、また、人的交流もさかんになりつつある。私たちがカンボジアを訪れる2013年は、プノンペンに初めて日系ショッピングモールができるなど、日系資本の本格参入の年とされている。では、このようなカンボジアで日本との関係はいつどのように始まったのだろうか。今回は、日本人を通してみたカンボジアについてまとめてみる。なお、時代をいくつかまたぐので、中世、近代、現代(独立後)、現代(和平後)にわけた通史とする。

1章 中世
1.はじめに
 16世紀、カンボジアには、政治都市プノンペンと貿易都市ピニャールーの二都市に日本人街が形成されていた。ここでは、胡椒などを求めて朱印船貿易が活発であった。残念ながら、それらの痕跡は、全く残っていない。
 一方、16世紀のスペインとポルトガルの宣教師による史料に、カンボジアでの日本人の記録がでてくる。この時代、カンボジアにおいても、カトリックの布教が試みられており、最初に入国した宣教師は、1555年に訪れたポルトガル人ドミニコ会士ガスパール・ダ・クルスとされる。その後、多くの宣教師、商人、征服者がカンボジアに入り、様々な活動を行った。それらに伴って、その背後で影響を与えていた日本人について記録をみることができる。

2.交易と日本人
 16世紀末、カンボジアの輸出品は、米、畜肉、魚、皮革、象牙、蝋と漆であった。輸入品は、織り糸、特に絹、朱砂、硫黄、水銀、銅、鉛と磁器などであった。王は、これらの商取引を統制していたが、取引そのものは全面的に中国人の手中にあり、それにプノンペン近辺に居住していた日本人がかかわっていた。

3.宣教師と日本人
 最初に記録がでてくるのが、1584年、マラッカのドミニコ会に所属するダゼベド神父によるものである。当時、カンボジアにおいて、宣教師は迫害を受けていた。カンボジア人は改宗する必要を感じておらず、また、僧侶による反発も大きかった。そのため、彼の小さな教会の信者はチャム人、日本人、ポルトガル商人など外国人ばかりだった。
 他方、日本人は積極的にカトリックへ改宗したわけではなかった。それを物語るのが、1600年前後に起きた宣教師の殺害である。カンボジアで活動した最後のマラッカのドミニコ会の宣教師グループに入るデ・フォンセカ神父は、ミサをあげているとき某日本人によって殺害された。理由は、その日本人の妻を改宗されたからであった。でも、これは致し方ない。

4.スペインによるカンボジア侵略と日本人
 16世紀末、弱体化したカンボジア王国は、西洋人よる個人的な介入を受けていた。個人的とは、国家や宗教などの組織的な支援なくして、カンボジア王国へ政治的な介入を行っていたことを意味する。ポルトガル人ベロソとスペイン人ブラス・ルイスである。彼らは、カンボジア王が宣教師を商取引に利用したのと同様に、今度は、マラッカの政治的支援を得る交渉に利用するために、親衛隊として、サータ王の身近に置かれた。
 1594年、シャムがカンボジアを攻略し、それに乗じて起こったクーデターによって、サータ王は失脚した。ベロソとルイスは、サータ王の王位奪還のため、スペイン領マニラにカンボジア遠征を要請した。そして、フィリピン臨時総督ルイス・ペレス・ダスマリナスの決断により、1596年ファン・クスアレス・ガリィナト将軍のカンボジア遠征が行われた。しかし、その遠征は失敗に終わり、その年の7月にプノンペンを離れた。
 その帰路、事件は起きた。ベロソとルイスは、ガリィナト将軍を説得し、ベトナムに立ち寄って、接収された大型船の返却を求めさせた。ガリィナト将軍は、ベトナム側のグエン=ホアンに使者を出し、カン・トリーに停泊した。グエン=ホアンは、その内容に腹を立て、スペイン人をその場で攻撃せよと厳命した。その命令が届いた、9月3日、その旅の途中で立ち寄った日本人とカスティーリャ(スペイン)の水夫たちの間で殴り合いのもめごとが起きた。ベトナム人と日本人は組んでガリィナト艦隊を襲撃しようと企てたが、裏をかかれて失敗に終わった。翌9月4日、スペイン人たちは、あわてて出港し、マニラに帰還した。
 ここに記されていることを要約すると、カンボジア遠征に失敗したスペイン船は、居合わせた日本人との揉め事に起因する襲撃を避けるため、たまたま出港し、ベトナムによる攻撃をさけられたのである。

5.地方長官となった征服者と日本人
 サータ王の死後、ベロソとルイスはその息子のバロム・レアッチア二世を王位に就かすことに成功した。その見返りとして、白人でありながら、1598年、二人はバプノム地方とトレアン地方を与えられ、プーサット、コンポン・スヴァイ、トゥバウン・クムなどの地方から税収入を個人で享受していた。国家が外国人個人に対して、領土を分割したようなものである。
 この少し後の1599年、1隻の日本船がプノンペンに着いた。なぜか、指揮を執っていたのはスペイン・ポストガル混血のゴーベアであった。船上には、軍人で冒険家のアントニオ・マラベールの姿があった。マラベールは、1596年にフィリピンからヌエバ・エスパルタへ向け出発したが、乗っていたガリオン船「サン・フェリペ」が日本沿岸で沈没し、長崎で暮らしていた。その長崎で、シャムへ行くというゴーベアに出会い、その途中、ベロソに会いにやってきたのである。そして、マラベールは、ベロソと組んで一旗あげる可能性を試そうとした。
 1599年、ベロソとルイスはスペインなどの支援のもと、カンボジア王バロム・レアッチア二世と正式な保護条約交渉に入った。しかし、それにより王の一族や高官たちの反感を招き、緊張が高まった。その時、スペイン人たちは、小部隊と民間人ともにプノンペン近郊の中国、日本、マレーなどの外国人居留地に隣接した臨時野営地に陣取っていた。ベロソとルイスがスレイ・サントー都城で王と交渉していたとき、ルイス・オルティス少尉とラクサマナの部下のマレー人との間で暴力事件が起きた。留守を守る臨時野営地の指揮官ビリャファーニェは、負傷した同胞をかばい、長崎から来たゴーベアと日本人たちの支援でマレー人駐屯地を包囲した。急を知らされたラクサマナは、部隊を召集し、カンボジア人をあおり立てて、スペイン人をその野営地と船に閉じ込めてしまった。ベロソとルイスは、王の忠告を無視し、仲間の救出に向かい、結局仲間と一緒に非業の死を遂げた。この闘いで西欧人はほとんど殺されてしまった。
 このプノンペンの惨殺によって、これ以後、スペインによる支配の終焉を意味していた。また、その過程で、日本人が関係していたのだった。

6、日本人の聖地「アンコール・ワット」
 水戸の彰考館には、「祇園精舎」と題するアンコール・ワットの平面図が所蔵されている。この絵図面の研究は伊東博士によって紹介された。大きさは縦68.45cm、横75cm の紙に描かれ、建築物を墨で表わし、水には青、彫像には黄などの色を施した立派な絵図面である。この絵図面には、「アンコール・ワットの十字回廊に4千体の金彩色仏があると記されている。これは、カンボジア人がプリヤ・ポアン、つまり千体仏と呼んでいるところに違いない。その絵図面には、「此君堂蔵本」の印が押されている。此君堂とは立原翠軒のことであり、彼は後に彰考館の総裁となり、文政6年(1823 年)3 月14 日、80 歳の高齢で没した。藤原忠奇がこの絵図面の裏側に裏書を書いたのは、安永元年(1772 年)である。翠軒43 歳の時であった。両者の直接的な対面または文通がなかったとはいいきれない。おそらく現存する祇園精舎絵図とその由来を書いた裏書は翠軒が写させ、彰考館に保管したものであろう。この絵図面は藤原忠寄の祖父忠義が、長崎において通辞つうじ某から写し取り、少なくも2度の転写を経たものということになる。原図の製作者は長崎の島野兼了で、製作は、海外への渡航が禁止される1636年以前である。
 島野兼了はオランダ船でカンボジアへ上陸した。本人はインドのマガダ国、また、アンコールをジェタヴァナ「祇園精舎」だとだと思い訪れた。祇園精舎とはインド中部の釈尊(Saka-muni=BC566 頃~BC486 頃)が修行した僧坊のことである。17世紀初頭の日本では、マガダ国も祇園精舎も南天竺のシャムとカンボジア方面にあると言い伝えられており、カンボジアで暮らしていた日本人にとって、アンコール・ワットは、よく知られた存在であった。
 この史実を裏付ける文献で、アドゥアルテが書いた「歴史」の中のマニラ・ドミニコ会士の話がある。修道士たちは、1603年、イニィーゴ・デ・サンタ・マリア神父の案内でマニラに到着、1604年頃までカンボジアで働いた。アドゥアルテによると、布教した宣教師たちは一人の日本人が到来するのを見た。その日本人は、「阿弥陀仏と釈迦に詣でる旅で訪れたのであり、片方はシャム、もう片方は、カンボジアで生まれたと聞いた。」としている。この敬虔な参拝者は、アドゥアルテに従えば、カンボジア人を「品行が悪く、野蛮で教養もなく堕落している」とみてとって非常に衝撃を受け、衝撃的にカトリックへ改宗してしまったとしている。当時も今と同様な印象をカンボジア人から受けていたようだが、この日本人参拝者がいたという報告は、アンコール・ワットに描かれた森本右近太夫一房の墨書や島野兼了の「祇園精舎」の思想を確証するものである。17世紀初頭アンコール・ワット詣でが盛んであったのだ。

7.近代のカンボジアと日本
 ポスト・アンコール期において、日本人がこれ程カンボジア王国に影響を与えていたことは、あまり知られていない。16世紀末から17世紀初頭にかけて、カンボジアにいた日本人は、政治的にポルトガル人やスペイン人たちの傍らで重要な役割を果たしており、また、経済的にも大きく活躍していた。カンボジアと日本との往来も盛んで、朱印船貿易によって、プノンペンやピニャールーなどの日本人町ができていた。また、そこの日本人によって、「祇園精舎」としてのアンコール・ワットの噂が本国まで伝わり、わざわざ、アンコール・ワット詣でが流行っていたのであった。また、これらは、民間の活動であったが、公的な活動として、1603年、1604年の日本船カンボジア派遣があり、カンボジア王ソルヨポールが1605年5月に日本の天皇陛下宛てに親書を送っていたと、フランス人学者ノエル・ペリは発表している。
 私たちは、カンボジアの遺跡としてアンコール・ワットを訪れているが、実は、400年前は、日本人の心の聖地であったのである。また、両国の王家の交流など、眠っていた歴史が少しずつ明らかになりつつある。
「祇園精舎」と題するアンコール・ワットの平面図

森本右近太夫の墨書
 

2012年11月10日土曜日

最初にアンコール・ワットを訪れた日本人たち

最初にアンコール・ワットを訪れた日本人たち

(1)有名な森本右近太夫一房の墨書
 17世紀初期、アンコール・ワットを訪れた日本人がいた。肥後の松浦藩士の森本右近太夫一房であり、記録として残っている日本人としては、5番目に古い参拝者である。右近太夫の父の義太夫は、加藤清正の家来であった。右近太夫は、その父の菩提を弔うために、当時、平家物語に出てくる「祇園精舎」だと信じられたアンコール・ワットを訪れたのである。右近太夫は、寛永8年(1631 年)の暮れから9年(1632 年)の正月の間に、松浦藩の朱印船に便乗してカンボジアに到着し、寛永9年(1632 年)、アンコール・ワットの十字回廊に、「父の菩提を弔い老母の後世を祈るため」と記した次の文章を豪筆している。

図 1 森本右近太夫一房の墨書

寛永九年正月ニ初而此処来ル生国日本
肥州之住人藤原朝臣森本右近太夫
一房御堂ヲ志シ数千里之海上ヲ渡リ一念
之胸ヲ念ジ重々世々娑婆浮世ノ思ヲ青ル
為ココニ仏ヲ四行立奉物也
摂州津西池田之住人森本右近太夫・・・・・・・・
○家之一吉○裕道仙之為娑婆ニ・・・・・・・・・・
茲ニ盡ク物也
尾州之国名黒ノ郡後室○・・・・・・・・
老母之魂明生大師為後生・・・・・・・・
茲ニ盡物也
                 寛永九年正月卅日

(2)17世紀のアンコール・ワットと日本
 右近太夫の訪問期というのは、ポスト・アンコール期にあたり、1431年のアンコール朝崩壊後、アンコール・ワットは上座仏教寺院に衣替えした時代である。、ポスト・アンコール期の偉大な王、アン・チャン1世(1546~76年)はアンコール・ワットを修復し、それ以後、各王がアンコール都城の復興を行い、住民の移住を奨励した。ちょうど同じ頃、西欧の宣教師たちも、この旧都の様子を書き残している。
 一方、日本では徳川家康が慶長8年(1603 年)に幕府を開いた。その時代、外国と日本との往来も盛んで、数多くの日本人が朱印船貿易によって現地へ赴おもき、日本人町を形成していた。カンボジアには、プノンペンと貿易港ピニャー・ルーの2ヶ所に日本人町があった。また、当時の日本人はこの東南アジア地域を南天竺と考えていた。
 しかし、右近太夫がアンコール・ワットを参詣した3年後の寛永12 年(1635 年)には、鎖国の方針が打ち出され、渡航禁止と帰国日本人の踏み絵が発表された。右近太夫は鎖国前のこうしたあわただしい雰囲気の中で帰国したようである。それと時を同じくして、1632 年加藤家は改易となり、すでに肥後(熊本)は細川藩に変わっていた。右近太夫は、松浦藩に仕えた後、父義太夫の生誕の地である京都に移り住んでいた。京都の寺で発見された墓碑には、父義太夫の法名のみ刻み込まれ、森本の俗名はない。しかし、位牌には森本義太夫が1651 年に没し、森本佐太夫(右近太夫)は1674年に没したとある。右近太夫は海外渡航時に使用した実名を隠し、厳しい鎖国令に対して社会的に身を隠す必要があった。そのため、右近太夫が改名し、佐太夫を名乗ったのである。また、森本家の子孫が新たに仕えることになった細川家に対する配慮もあった。

(3)森本右近太夫一房についての伝聞
 森本右近太夫一房の没後も松浦藩にはアンコール・ワットが伝えられていた。平戸の松浦藩主松浦静山の随筆集『甲子夜話』正篇巻21 の中に右近太夫の記述がある。

「清正の臣森本義太夫の子を字右衛門と称す。義太夫浪人の後宇右は吾天祥公の時お伽とぎに出て咄はなしなど聞かれしとなり此人誉て明国に渡り夫それより天竺に住たるに彼国の堺なる流砂川をわたるとき大魚を見たるが、殊ことに大にして数尺に及びたりと云夫それより檀特山に登り祇園精舎をも覧てこの伽藍がらんのさまは自ら図記して携還れり。今子孫吾中にあり正しくこれを伝ふ然ども今は模写なり。」

 『甲子夜話』は文政4年(1821年)11 月甲子の夜に筆を起こし、天保12 年(1841 年)6月に死去するまでの、20年間にわたって書き綴られたものである。ここにある「ここより檀時山に登り祇園精舎をも覧て」とは、「ここより中央嗣堂に登りアンコール・ワットを一覧した」ということである。また、これらの記述から、右近太夫によるアンコール・ワットの絵図が松浦家中に残されていたことを示している。

(4)アンコール・ワットを訪れた日本人たち
 この他、アンコール・ワットの十字型中回廊の壁や柱などには、日本人参詣者の墨書跡が15ヶ所残っている。判読できるこれら落書きの年代は慶長17年(1612年)から寛永9年(1632 年)まで20 年間のものである。この時代は、朱印船の活動が活発であった時代であり、墨筆者は朱印船に搭乗した人たちであった。例えば、慶長17 年(1612 年)度の墨書には“日本堺”と記すものが多く、同地の商人によって送り出された船に乗っていた団体旅行を行ったの人であった。また、朱印船には船の運航に必要な船員の他に、便乗商人というべき客商も少なからず乗り組んでいた。彼らは寄航地において独自に貿易を行ったが、船の商品の上げ下ろしには直接関係がないから、次の出航までの問を利用してアンコール・ワットに詣もうでることも可能であったろう。肥後国の安原屋嘉右衛門尉は、これら客商の一人であった。
また、墨書にある地名として「泉州堺」と「肥前」「肥後」、さらに解読が難しいが「大阪」らしき地名が現れている。つまり、渡航者は平戸、長崎、肥前の出身者が多く、次に堺および大阪商人であった。
 これらの墨書の位置を図2に示す。



図 2 日本人墨書の位置(十字回廊付近の拡大図) ①が森本右近太夫一房の墨書  
 以上、これらの多くの日本人の痕跡がアンコール・ワットに存在し、カンボジアと日本との意外な関係があった。しかしながら、残念なことに右近太夫の墨書は、1970年代の内戦時、ポル・ポト派によって墨で塗り潰されてしまった。そのため、現在は大変読みづらいものとなっている。

2012年9月21日金曜日

アンコール・ワット建立の説話

 エティエンヌ・エイモニエの著書に載せられたプレアハ・ケート・ミアリアによるアンコール・ワット建立の説話、1961年、プノンペンの仏教研究所が刊行する『カムプチュア・ソリヤー(Kambuja Suriya)』誌の連載より、以下、説話の梗概
仏暦600年、上海にルム・セーンという人物がいた。彼は、花売りとして貧しい生活をおくっていた。ある日、インドラ神の天界から、天女たちがルム・セーンの花畑へ遊びに来た。そのとき、天女トゥップ・ソタチャンは、花を6本摘んでしまったことから、罰として6年間下界に住み、ルム・セーンの妻になるよう命じられた。
 1年後、2人の間には男の子が生まれ、地面に絵を描くのが好きなことから、「プレアハ・ピスヌカー」[建築の神ヴィシュヴァカルマン(Visvakarman)に由来]と名づけられた。プレアハ・ピスヌカーが5歳になった時、6年の罰則期間が過ぎて、トゥップ・ソタチャンは天界へ帰っていった。ル
ム・セーンとプレアハ・ピスヌカーは、悲しみにくれた。 そのころ、カンボジアでは王が逝去し、王座は空位になっていた。そこで、インドラ神は自らニワトリに変身し、その肉を食べたものを新王として即位させることに決めた。ゾウ遣いのティアと妻ヴォーンがそのニワトリの肉を食べたところ、王の選定のために王宮から放たれたゾウは、彼ら2人のもとへ来た。さらに、王妃となったヴォーンの枕元にインドラ神が現われ、ヴォーンの身体に花環を落としていった。王妃は懐妊し、月満ちて男の子を産んだ。王子は、「プレアハ・ケート・ミアリア」[「輝く花環」の意]と命名された。
 一方、プレアハ・ピスヌカーは母を失った悲しみが癒されず、母探しの旅へと出掛けた。野を越え、山を越え、たどり着いた丘の上で、プレアハ・ピスヌカーは天女たちを目にした。彼が姿を見せても、1人だけ逃げない天女がいた。彼女こそ母トゥップ・ソタチャンで、ここに母と子は再会を果たした。トゥップ・ソタチャンに連れられて天界へ赴くと、プレアハ・ピスヌカーはインドラ神の計らいで、天界の絵画や彫刻の技術を学ばせてもらった。
 インドラ神は成長したプレアハ・ケート・ミアリアの姿を見ようと思い、彼のもとに降臨した。自らが父であることを明かしたインドラ神は、彼を天界へと連れて行き、天の宮殿を見せた。「お前をカンボジア王にして、天界の宮殿と同じものを地上に建ててやろう」とインドラ神は約束し、プレアハ・ピスヌカーを呼び出して、地上に宮殿を建てるよう命じた。
 仏暦620年、プレアハ・ピスヌカーは彫刻がふんだんに施された宮殿を建てた。その宮殿が、現在まで伝わるアンコール・ワットである。
 宮殿にたいそう満足したプレアハ・ケート・ミアリアは、プレアハ・ピスヌカーに鉄180キロを与えて、剣を作らせた。プレアハ・ピスヌカーは鉄を鍛えて、鋭利で小さな剣を作った。だが、ププレアハ・ケート・ミアリアは、完成した剣が小さいのを目にして、プレアハ・ピスヌカーが残りの鉄を着服したのではないかと疑った。疑われて腹を立てたプレアハ・ピスヌカーは、剣をトンレ・サップ湖に投げ捨て、故郷の中国へと帰っていった。
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出典:「アンコールの近代」

2012年9月9日日曜日

カンボジア宮廷舞踊団とオーギュスト・ロダン


ロダンにも影響を与えた宮廷舞踊
 1906年3月10日、シソワット王や舞踊団80名からなる一行がサイゴンを出発した。6月11日、一行はマルセイユに到着し、植民地博覧会の場で催された公演は連夜3万人を越える観客を集めた。彫刻家オーギュスト・ロダンは、このパリでの公演を観覧した後、帰路マルセイユへと向かう舞踊団を追って、踊り子を描いたデッサンを残している。そして、踊り子の腕・足・指・腰など、身体の動きについて盛んに言及している。
 オーギュスト・ロダンにとって、カンボジアの舞踊そのものが目にする価値のあるものだった。

図1 1906年 渡仏した舞踊団

図2 1906年 オーギュスト・ロダンによるカンボジア舞踊のデッサン1

図3 1906年 オーギュスト・ロダンによるカンボジア舞踊のデッサン2

抜粋文献
「アンコールの近代 植民地カンボジアにおける文化と政治」
中央公論新社 2006 

2012年8月26日日曜日

カンボジアの宮廷舞踊について

カンボジアの宮廷舞踊について
1431年のシャムのアユタヤ朝によるアンコール王都への侵攻と王都の放棄以降、踊り子や演奏家が多数アユタヤへ連行された。そして、19世紀半ばから20世紀初頭にかけて、カンボジアはシャムの宮廷舞踊から強く影響を受け、今日の宮廷舞踊が形成された。しかし、宮廷舞踊は、フランスによる植民地期の著作や文化政策を通じて、アンコール時代からの「伝統」と見なされるようになった。それは、20世紀初期まで、フランス人の著作のみに見られたが、フランス語教育を受けた知識人が活躍するようになると、その「伝統」はカンボジア人にも受け入れられるようになった。それは独立後のナショナリズムの構成にも影響を与えた。
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「伝統」になった宮廷舞踊団
19世紀半ばのアン・ドゥオン王の治世以降、カンボジアはシャムの宮廷文化から強く影響を受けた。アン・ドゥオン王はシャムの後ろ盾を得て即位したことや、同王を継いで即位したノロドム王とシソワット王が、幼年時代をバンコクの王宮で過ごしたことなどが、タイ文化の影響を受けた理由として挙げられる。宮廷舞踊もまた、こうした影響を受けたものであった。

植民地時代前半のフランス人の主張
1863年、カンボジアがフランスの「保護国」となり、宮廷舞踊もフランス人により記述されるようになった。ジャン・ムーラは、踊り子の衣装が古代の浮彫りと類似するとの主張を展開した。しかし、ムーラは、演目『ラーマキエン』、すなわちタイ版のラーマ物語を挙げ、カンボジア版のラーマ物語『リアム・ケー』と別物と認識していた。また、『アイナウ』という物語もシャム由来として紹介している。ムーラは、アンコールと関連づけてカンボジアの宮廷舞踊を論じているものの、タイ文化の影響も見て取れる記述を行っている。
アデマール・ルクレールの論文は、幼年期をバンコクで過ごしたノロドム王がタイ語を好むため舞踊の演目はタイ語で上演されていること、さらに舞踊団にタイ人の踊り子が所属することに言及している。しかし、ルクレールは、シャムによるアンコール王都への侵攻以降、アンコールの踊り子や演奏家がシャムに連行され、アンコールの舞踊の演目がタイ語に翻訳されたした。そのため、シャムから伝わったとしても宮廷舞踊の起源はアンコールにあるとしている。
しかし、これはシャムで独自の変容を被った可能性を扱わず、アンコールに由来する「伝統」が保存されたとすることだけが主張されたものであった。

植民地時代拡充期のフランス人の主張
ジョルジュ・グロリエは、1911年『古代と現代のカンボジアの踊り子』と題する著書を上梓した。この中で、アンコール遺跡の彫刻に描写された女性は当時の踊り子を表わし、その女性と現代の踊り子との間に、手の仕草の類似が見られると主張した。また、グロリエは、西洋文化の影響によって、観客である王族や高官だけでなく、カンボジアの踊り子自身も踊りの仕草や振付けの意味を理解できなくなっており、カンボジアの踊りが「衰退」の「危機」に瀕していると主張した。
次に、1918年、カンボジア美術学校(Ecole des arts cambodgiens)の初代校長に就任したグロリエは、再びカンボジア美術の「危機」を力説する論文を発表した。1431年のシャム侵略によるアンコール陥落以後、カンボジア美術はシャムの影響を受けたことによって、ポスト・アンコール時代の数世紀にわたる「衰退」を招き、フランスのインドシナ到着時にすでにその「危機」にあったと記した。
その後、カンボジア美術局(Service des arts cambodgiens)の局長となったグロリエは、1927年、カンボジアの舞踊の現状を報告する文章を理事長官府に提出した。その中で、舞踊の「衰退」という記述は繰り返され、フランス行政当局が保護に着手するように訴えた。その根拠として、シャムはアンコールから踊りのテクストや儀礼性を借用し、翻訳したと述べ、また、14世紀以降、踊り子が多数アユタヤへ連行されたことも取上げ、踊りの起源をアンコールに求めている。そして、1928年から29年のうちに改革が達成されれば、1931年に予定されているパリ植民地博に間に合うと報告書を結んでいる。
この報告書が提出された1927年、カンボジア理事長官府はシソワット王に圧力をかけ、宮廷舞踊団の管理をフランスに委譲する勅令を発布させた。それにより、グロリエが局長を務めるカンボジア美術局が宮廷舞踊団を管理することとなった。その事項に関するフランス側の反応として、サッポ・マルシャル(Sappho Marchal)は論文の中で、『カンボジア美術局局長にして、クメールの国の親友たるグロリエ氏は、踊りが消滅するのを放置しておけなかった。彼は伝統を記述し、また、シソワット王の承認と保護国の援助のもと、踊りの再組織化に着手した。原因は信頼しうる人物の手に委ねられており、すでに解決されつつあるといえる』としている。
しかし、その舞踊団は1930年にカンボジア美術局から王宮へ返還された。その結果、フランスは間近に迫ったパリ植民地博覧会に舞踊団を派遣することが困難になった。そこで、白羽の矢が立てられたのが、宮廷舞踊団の元構成員で王族の妻となりながら、王宮内での対立から民間で観光客相手の舞踊団を組織していたソーイ・サンヴォンだった。渡仏したソーイ・サンヴォンは、アンコール・ワットの模型を舞台として公演し、民間組織でありながら、当時の雑誌記事に「宮廷舞踊」として紹介されていた。
帰国後も、ソーイ・サンヴォンの舞踊団は優遇され、フランス行政当局からの補助金や、グロリエの指揮下にある美術学校で政策された踊りの仮面や装飾品が与えられたほか、アンコール・ワットを訪れた観光客に対して遺跡で公演を行なう独占権が付与された。

偏重した論説への批判
上記のように、「伝統」「衰退」「保護」をめぐるグロリエの言説は、フランスの植民地行政当局を動かし、王宮から宮廷舞踊団を奪った。このグロリエの言説は、フランスが植民地支配を正当化するために行われた言説と密接に結びついており、アンコール遺跡や「領土」の「保護」する言説と構造を同じくする。
ポール・クラヴァットは、グロリエが語るシャムによる「衰退」を誇張であると批判し、1913年から14年にかけて、王宮内にチャン・チャヤー舞踊殿が建立されていることから、宮廷舞踊に対する王宮の意識は高かったと述べている。さらに、衣装の変更に見られるタイ文化からの影響を論じている。また、グロリエ自身もノロドム王の舞踊団にはタイ人が多数所属し、シソワット王治下現在でも、2名を除けば踊りの教師は全員タイ人であることを紹介している。グロリエ自身も植民地時代前半のフランス人の主張にあるように、宮廷舞踊はシャムからの影響を受けていると認めつつも、宮廷舞踊をアンコールに由来する「伝統」とすることに腐心していたのであった。そして、その「伝統」が失われたと嘆くことにより「帝国主義的ノスタルジー」を興起させ、フランスが宮廷舞踊に介入する口実を作り上げた。
1927年、宮廷舞踊団はフランス側の管理となった。しかしながら、その舞踊団の「改革」は、宮廷文化の担い手であるという自負を持つ舞踊団の成員にとって、容認しうるものではなく、成員の抵抗や人材不足に陥った。1930年、フランスは舞踊団の管理を断念した。宮廷舞踊団を失ったフランスは、ソーイ・サンヴォンの舞踊団という新たな「伝統」の護持者を選び、「伝統」の「保護」を遂行し、植民地支配を正当化し続けた。


シハヌーク時代の宮廷舞踊
1930年、カンボジア美術局から王宮に宮廷舞踊団が返還されて以降、王宮内では舞踊団を再建する試みが見られた。こうした舞踊団再建の試みは、独立後のカンボジアで宮廷舞踊が国民文化へ取り込まれていく第一歩となった。

シソワット王の逝去を受けた舞踊団成員の脱退や、カンボジア美術局による管理の結果、舞踊団は人材不足という問題を抱えていたため、再建は人材養成から始められた。シソワット期の舞踊団に所属していたクン・ミアックは、王宮に20人ほどの少女を集めて踊りの訓練を行った。数年後には、シハヌークの母コサマックがクン・ミアックの舞踊団を引き継いだ。
1942年11月、ベトナムのバオダイ帝がプノンペンを訪問し、歓迎式典で踊りを披露することが決定した。フランスの植民地行政当局はソーイ・サンヴォンの舞踊団を推薦したが、カンボジア側はコサマックの舞踊団が担当することを主張した。このバオダイ帝の歓迎式典がシハヌークの誕生日の式典と重なったこともあって、最終的にカンボジア側の主張が通り、初舞台となったコサマックの舞踊団の公演は成功を収めた。
1953年の独立前後、コサマックは舞踊団の改革を行なった。変更点は多岐に渡る。19世紀半ばのアン・ドゥオン王の治世以降、宮廷舞踊団の踊り子は女性に限定されていたが、ラーマ物語のサル役などに男性が起用されるようになり、また、王族の娘も舞踊団に加わるようになった。宮廷儀礼としての夜を徹した上演形式から、時間が短縮された。そして、カンボジアを訪れた海外の要人を前に宮廷舞踊が上演され、シハヌークの外遊に際しては舞踊団も同行して海外公演を行うようになった。
コサマックの改革のなかでも、アンコール遺跡の浮彫りを模した「アプサラー・ダンス」などの新しい演目が創られたことは、アンコールをめぐる言説との関連という観点から意義が大きい。シハヌークの娘ノロドム・ボッパテヴィーが演じるアプラサラー・ダンスはカンボジアの王族がアンコールから続く「伝統」を体現すると見なされ、しばしば写真入りで雑誌に紹介された。一方、シャムから影響を受けた『アイナウ』なども引き続き演じられた。
このように、コサマックの舞踊団の改革によって、独立後のカンボジアで宮廷舞踊が政治的な役割を担っていった。

カンボジア人の認識による宮廷舞踊をめぐっては、1930年代より、アンコール時代からの「伝統」と見なす語りが国家の公式見解とされた。その影響を与えたのがチュオンの書であった。1956年、チュオンの書が仏教研究所から再版された。さらに1964年には、フランス語版の教育雑誌にチュオンの書からの抜粋が掲載された。チュオンの書以外にも、カンボジアの情報省が刊行していたフランス語の雑誌では、アンコールの浮彫りと類似点が見られる宮廷舞踊は「伝統」であると紹介されていた。このように、フランスにより論じられたアンコールからの「伝統」が独立後のカンボジア政府でも維持された。

ロン・ノル政権下の宮廷舞踊
宮廷舞踊に関する言説は、シハヌーク時代に流布した言説と連続したものであった。しかし、ロン・ノル政権が反シハヌーク、反王政という性格を持っていたため、「宮廷舞踊」を「古典舞踊」へと名称が変更され、舞踊団も王宮から芸術大学へ移管された。

ポル・ポト政権下の宮廷舞踊
1975年、ポル・ポト政権成立後、直ちに開始された都市からの強制移住により、舞踊団の成員も地方へ送られ、既存の文化を否定する同政権の政策により、宮廷舞踊が上演されることはなくなった。

ヘン・サムリン政権下の宮廷舞踊
人民革命党政権の成立を受けて、地方で生き残った舞踊団の成員も徐々にプノンペンに戻り、舞踊団や芸術大学の復興が始まった。また、タイ国境や難民キャンプやフランス、アメリカでも、宮廷舞踊や民間舞踊を演じる団体が設立された。

カンボジア王国成立後の宮廷舞踊
1993年の新王国成立後、アンコール・ワットを舞台に開催されたラーマーヤナ・フェスティヴァルでは、文化芸術省の舞台芸術局に所属する舞踊団が宮廷舞踊と民間舞踊を上演した。また、西暦2000年を祝う式典でも、同様の公演が行われた。この式典はカンボジアのテレビ各局によって生中継され、アンコール時代から続く「伝統」として宮廷舞踊を紹介した。

以上のように、宮廷舞踊は植民地博覧会やフランス人の著作を通じて「伝統」が創り出され、チュオンによって受容された言説によって、今なおカンボジアで命脈を保っている。またそれは、日本へ紹介される場合にも引用され、某旅行ガイドブックにおいて、宮廷舞踊として最も有名なのは、アンコール遺跡の彫刻とかんれ付けされた『アプサラの踊り』とされ、国の文化復興政策の一環として王立舞踊団が紹介されている。

抜粋文献
「アンコールの近代 植民地カンボジアにおける文化と政治」
中央公論新社 2006