2012年8月26日日曜日

カンボジアの宮廷舞踊について

カンボジアの宮廷舞踊について
1431年のシャムのアユタヤ朝によるアンコール王都への侵攻と王都の放棄以降、踊り子や演奏家が多数アユタヤへ連行された。そして、19世紀半ばから20世紀初頭にかけて、カンボジアはシャムの宮廷舞踊から強く影響を受け、今日の宮廷舞踊が形成された。しかし、宮廷舞踊は、フランスによる植民地期の著作や文化政策を通じて、アンコール時代からの「伝統」と見なされるようになった。それは、20世紀初期まで、フランス人の著作のみに見られたが、フランス語教育を受けた知識人が活躍するようになると、その「伝統」はカンボジア人にも受け入れられるようになった。それは独立後のナショナリズムの構成にも影響を与えた。
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「伝統」になった宮廷舞踊団
19世紀半ばのアン・ドゥオン王の治世以降、カンボジアはシャムの宮廷文化から強く影響を受けた。アン・ドゥオン王はシャムの後ろ盾を得て即位したことや、同王を継いで即位したノロドム王とシソワット王が、幼年時代をバンコクの王宮で過ごしたことなどが、タイ文化の影響を受けた理由として挙げられる。宮廷舞踊もまた、こうした影響を受けたものであった。

植民地時代前半のフランス人の主張
1863年、カンボジアがフランスの「保護国」となり、宮廷舞踊もフランス人により記述されるようになった。ジャン・ムーラは、踊り子の衣装が古代の浮彫りと類似するとの主張を展開した。しかし、ムーラは、演目『ラーマキエン』、すなわちタイ版のラーマ物語を挙げ、カンボジア版のラーマ物語『リアム・ケー』と別物と認識していた。また、『アイナウ』という物語もシャム由来として紹介している。ムーラは、アンコールと関連づけてカンボジアの宮廷舞踊を論じているものの、タイ文化の影響も見て取れる記述を行っている。
アデマール・ルクレールの論文は、幼年期をバンコクで過ごしたノロドム王がタイ語を好むため舞踊の演目はタイ語で上演されていること、さらに舞踊団にタイ人の踊り子が所属することに言及している。しかし、ルクレールは、シャムによるアンコール王都への侵攻以降、アンコールの踊り子や演奏家がシャムに連行され、アンコールの舞踊の演目がタイ語に翻訳されたした。そのため、シャムから伝わったとしても宮廷舞踊の起源はアンコールにあるとしている。
しかし、これはシャムで独自の変容を被った可能性を扱わず、アンコールに由来する「伝統」が保存されたとすることだけが主張されたものであった。

植民地時代拡充期のフランス人の主張
ジョルジュ・グロリエは、1911年『古代と現代のカンボジアの踊り子』と題する著書を上梓した。この中で、アンコール遺跡の彫刻に描写された女性は当時の踊り子を表わし、その女性と現代の踊り子との間に、手の仕草の類似が見られると主張した。また、グロリエは、西洋文化の影響によって、観客である王族や高官だけでなく、カンボジアの踊り子自身も踊りの仕草や振付けの意味を理解できなくなっており、カンボジアの踊りが「衰退」の「危機」に瀕していると主張した。
次に、1918年、カンボジア美術学校(Ecole des arts cambodgiens)の初代校長に就任したグロリエは、再びカンボジア美術の「危機」を力説する論文を発表した。1431年のシャム侵略によるアンコール陥落以後、カンボジア美術はシャムの影響を受けたことによって、ポスト・アンコール時代の数世紀にわたる「衰退」を招き、フランスのインドシナ到着時にすでにその「危機」にあったと記した。
その後、カンボジア美術局(Service des arts cambodgiens)の局長となったグロリエは、1927年、カンボジアの舞踊の現状を報告する文章を理事長官府に提出した。その中で、舞踊の「衰退」という記述は繰り返され、フランス行政当局が保護に着手するように訴えた。その根拠として、シャムはアンコールから踊りのテクストや儀礼性を借用し、翻訳したと述べ、また、14世紀以降、踊り子が多数アユタヤへ連行されたことも取上げ、踊りの起源をアンコールに求めている。そして、1928年から29年のうちに改革が達成されれば、1931年に予定されているパリ植民地博に間に合うと報告書を結んでいる。
この報告書が提出された1927年、カンボジア理事長官府はシソワット王に圧力をかけ、宮廷舞踊団の管理をフランスに委譲する勅令を発布させた。それにより、グロリエが局長を務めるカンボジア美術局が宮廷舞踊団を管理することとなった。その事項に関するフランス側の反応として、サッポ・マルシャル(Sappho Marchal)は論文の中で、『カンボジア美術局局長にして、クメールの国の親友たるグロリエ氏は、踊りが消滅するのを放置しておけなかった。彼は伝統を記述し、また、シソワット王の承認と保護国の援助のもと、踊りの再組織化に着手した。原因は信頼しうる人物の手に委ねられており、すでに解決されつつあるといえる』としている。
しかし、その舞踊団は1930年にカンボジア美術局から王宮へ返還された。その結果、フランスは間近に迫ったパリ植民地博覧会に舞踊団を派遣することが困難になった。そこで、白羽の矢が立てられたのが、宮廷舞踊団の元構成員で王族の妻となりながら、王宮内での対立から民間で観光客相手の舞踊団を組織していたソーイ・サンヴォンだった。渡仏したソーイ・サンヴォンは、アンコール・ワットの模型を舞台として公演し、民間組織でありながら、当時の雑誌記事に「宮廷舞踊」として紹介されていた。
帰国後も、ソーイ・サンヴォンの舞踊団は優遇され、フランス行政当局からの補助金や、グロリエの指揮下にある美術学校で政策された踊りの仮面や装飾品が与えられたほか、アンコール・ワットを訪れた観光客に対して遺跡で公演を行なう独占権が付与された。

偏重した論説への批判
上記のように、「伝統」「衰退」「保護」をめぐるグロリエの言説は、フランスの植民地行政当局を動かし、王宮から宮廷舞踊団を奪った。このグロリエの言説は、フランスが植民地支配を正当化するために行われた言説と密接に結びついており、アンコール遺跡や「領土」の「保護」する言説と構造を同じくする。
ポール・クラヴァットは、グロリエが語るシャムによる「衰退」を誇張であると批判し、1913年から14年にかけて、王宮内にチャン・チャヤー舞踊殿が建立されていることから、宮廷舞踊に対する王宮の意識は高かったと述べている。さらに、衣装の変更に見られるタイ文化からの影響を論じている。また、グロリエ自身もノロドム王の舞踊団にはタイ人が多数所属し、シソワット王治下現在でも、2名を除けば踊りの教師は全員タイ人であることを紹介している。グロリエ自身も植民地時代前半のフランス人の主張にあるように、宮廷舞踊はシャムからの影響を受けていると認めつつも、宮廷舞踊をアンコールに由来する「伝統」とすることに腐心していたのであった。そして、その「伝統」が失われたと嘆くことにより「帝国主義的ノスタルジー」を興起させ、フランスが宮廷舞踊に介入する口実を作り上げた。
1927年、宮廷舞踊団はフランス側の管理となった。しかしながら、その舞踊団の「改革」は、宮廷文化の担い手であるという自負を持つ舞踊団の成員にとって、容認しうるものではなく、成員の抵抗や人材不足に陥った。1930年、フランスは舞踊団の管理を断念した。宮廷舞踊団を失ったフランスは、ソーイ・サンヴォンの舞踊団という新たな「伝統」の護持者を選び、「伝統」の「保護」を遂行し、植民地支配を正当化し続けた。


シハヌーク時代の宮廷舞踊
1930年、カンボジア美術局から王宮に宮廷舞踊団が返還されて以降、王宮内では舞踊団を再建する試みが見られた。こうした舞踊団再建の試みは、独立後のカンボジアで宮廷舞踊が国民文化へ取り込まれていく第一歩となった。

シソワット王の逝去を受けた舞踊団成員の脱退や、カンボジア美術局による管理の結果、舞踊団は人材不足という問題を抱えていたため、再建は人材養成から始められた。シソワット期の舞踊団に所属していたクン・ミアックは、王宮に20人ほどの少女を集めて踊りの訓練を行った。数年後には、シハヌークの母コサマックがクン・ミアックの舞踊団を引き継いだ。
1942年11月、ベトナムのバオダイ帝がプノンペンを訪問し、歓迎式典で踊りを披露することが決定した。フランスの植民地行政当局はソーイ・サンヴォンの舞踊団を推薦したが、カンボジア側はコサマックの舞踊団が担当することを主張した。このバオダイ帝の歓迎式典がシハヌークの誕生日の式典と重なったこともあって、最終的にカンボジア側の主張が通り、初舞台となったコサマックの舞踊団の公演は成功を収めた。
1953年の独立前後、コサマックは舞踊団の改革を行なった。変更点は多岐に渡る。19世紀半ばのアン・ドゥオン王の治世以降、宮廷舞踊団の踊り子は女性に限定されていたが、ラーマ物語のサル役などに男性が起用されるようになり、また、王族の娘も舞踊団に加わるようになった。宮廷儀礼としての夜を徹した上演形式から、時間が短縮された。そして、カンボジアを訪れた海外の要人を前に宮廷舞踊が上演され、シハヌークの外遊に際しては舞踊団も同行して海外公演を行うようになった。
コサマックの改革のなかでも、アンコール遺跡の浮彫りを模した「アプサラー・ダンス」などの新しい演目が創られたことは、アンコールをめぐる言説との関連という観点から意義が大きい。シハヌークの娘ノロドム・ボッパテヴィーが演じるアプラサラー・ダンスはカンボジアの王族がアンコールから続く「伝統」を体現すると見なされ、しばしば写真入りで雑誌に紹介された。一方、シャムから影響を受けた『アイナウ』なども引き続き演じられた。
このように、コサマックの舞踊団の改革によって、独立後のカンボジアで宮廷舞踊が政治的な役割を担っていった。

カンボジア人の認識による宮廷舞踊をめぐっては、1930年代より、アンコール時代からの「伝統」と見なす語りが国家の公式見解とされた。その影響を与えたのがチュオンの書であった。1956年、チュオンの書が仏教研究所から再版された。さらに1964年には、フランス語版の教育雑誌にチュオンの書からの抜粋が掲載された。チュオンの書以外にも、カンボジアの情報省が刊行していたフランス語の雑誌では、アンコールの浮彫りと類似点が見られる宮廷舞踊は「伝統」であると紹介されていた。このように、フランスにより論じられたアンコールからの「伝統」が独立後のカンボジア政府でも維持された。

ロン・ノル政権下の宮廷舞踊
宮廷舞踊に関する言説は、シハヌーク時代に流布した言説と連続したものであった。しかし、ロン・ノル政権が反シハヌーク、反王政という性格を持っていたため、「宮廷舞踊」を「古典舞踊」へと名称が変更され、舞踊団も王宮から芸術大学へ移管された。

ポル・ポト政権下の宮廷舞踊
1975年、ポル・ポト政権成立後、直ちに開始された都市からの強制移住により、舞踊団の成員も地方へ送られ、既存の文化を否定する同政権の政策により、宮廷舞踊が上演されることはなくなった。

ヘン・サムリン政権下の宮廷舞踊
人民革命党政権の成立を受けて、地方で生き残った舞踊団の成員も徐々にプノンペンに戻り、舞踊団や芸術大学の復興が始まった。また、タイ国境や難民キャンプやフランス、アメリカでも、宮廷舞踊や民間舞踊を演じる団体が設立された。

カンボジア王国成立後の宮廷舞踊
1993年の新王国成立後、アンコール・ワットを舞台に開催されたラーマーヤナ・フェスティヴァルでは、文化芸術省の舞台芸術局に所属する舞踊団が宮廷舞踊と民間舞踊を上演した。また、西暦2000年を祝う式典でも、同様の公演が行われた。この式典はカンボジアのテレビ各局によって生中継され、アンコール時代から続く「伝統」として宮廷舞踊を紹介した。

以上のように、宮廷舞踊は植民地博覧会やフランス人の著作を通じて「伝統」が創り出され、チュオンによって受容された言説によって、今なおカンボジアで命脈を保っている。またそれは、日本へ紹介される場合にも引用され、某旅行ガイドブックにおいて、宮廷舞踊として最も有名なのは、アンコール遺跡の彫刻とかんれ付けされた『アプサラの踊り』とされ、国の文化復興政策の一環として王立舞踊団が紹介されている。

抜粋文献
「アンコールの近代 植民地カンボジアにおける文化と政治」
中央公論新社 2006 

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