2012年3月11日日曜日

アンリ・ムオ

アンリ・ムオについて、「『史学』第四十一巻 第二号、木村宗吉著、1968年」に詳しく紹介さている。ここでは、それを一部編集して掲載する。

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1、
アンリ・ムオ(1826~1861)は、1858年から1861年にかけてタイ・カンボジア・ベトナム・ラオスを調査探検したフランスの博物学者であり、アンコール遺跡を西欧へ紹介したことで名高い人物である。
アンリ・ムオ(Alexandre Henri Mouhot)は、1826年5月15日、フランスのドゥー県(Doubs)モンベリアル(Montbéliard)で生まれた。18歳のときロシアへ行き、フランス語の家庭教師をしたり、陸軍士官学校でフランス語を教えたりしたが、休暇を利用してポーランドやクリミア半島へ旅行した。1854年、フランスへ帰った。クリミア戦争が起り、フランスとロシアの関係が悪化した年である。1856年、渡英して結婚。妻はアフリカ探検家として有名なMungo Parkの一族であり、ムオはParkと縁つづきになったことを名誉としたようである。ムオは1858年4月27日ロンドンから乗船、4ヶ月半を経て、9月12日チャオプラヤー川の河口にあるパークナムに到着した。ラーマ4世治下のタイ国である。「パークナムは、シャム王にとってセヴァストポリ要塞やクロンスタット要塞にあたる。けれども、ヨーロッパの一艦隊なら簡単にパークナムを制圧し、パークナムで朝食をとった艦隊司令官は、その日の夕飯をバンコクでとるであろう、と私は空想した。」彼はこう書いている。
ムオは以後、1861年ルワンプラバーン(LuangPhrabang)の近くで死ぬまでの3年間、バンコクを基地として、4つの旅行をおこなっている。
第1回目は、1858年10月から12月まで。チャオプラヤー川を小舟でさかのぼり、5日をついやしてアユタヤに行く。また、プラプッタバートやサラブリー(Saraburi)を訪れ、12月バンコクへ帰る。
第2回目は、1858年12月末から1860年4月まで。主としてカンボジア旅行。ムオはバンコクで漁船に乗り、1859年1月4日、チャンタブリーに着く。彼は小舟を買って付近の島々を訪ねたり、チャンタブリー(Chanthaburi)の近くの野山を歩いたりして約3ヶ月を費やす。その後、海路カンボジアのカンポットに行く。そこから、陸路、旅を続けて当時の首都ウドンに至った。ついで、ウドンに近いピニャール(Vihear Luong)に行き、7月の大半をそこで宣教師とともに過ごす。ムオは東北カンボジアのスティエン族を調査するため、プノンペンに出て必要な品物を整えてから、コンポン・チャム付近までメコン川をさかのぼる。そこから東へ向って陸路困難な旅を続け、8月の中頃、目的地であるベトナムのブレルム(BinhLong)に到着する。ブレルムは宣教師の前哨基地ともいうべき所、彼は宣教師の客としてそこに3ヶ月半滞在してスティエン族の観察を続け、彼らの衣・食・住・農耕・結婚・葬式・祭り・信仰などについて興味ある記述を残している。1859年11月末ブレルムをたち、クリスマスの数日前、プノンペンに帰ってくる。そこから北上、トンレサップ川を船で渡る。「湖水のまんなかに高い棒杭が立っており、それがシャム王国とカンボジア王国の境界を示している。」と、彼は書いている。ムオは、1860年1月バッタンバンの一宣教師の案内で、アンコールに行き、そこに3週間滞在してアンコール・ワットやアンコール・トムなどの遺跡を調査、3月5日バッタンバンをたち、4月4日無事15ヶ月にわたる旅を終えてバンコクに帰って来る。
第3回目は、1860年5月から8月まで。ペチャブリー(Phetchaburi)の山中で過ごす。バンコクに帰ってからラオスへの旅を準備する。
第4回目にして最後の旅は、1860年秋から1861年11月まで。秋バンコクを出発して翌1861年2月末、チャイヤプール(Chaiyaphum)まで進むが、旅に必要な象や牛が得られず、やむ得ずバンコクは引き返す。バンコクに半月ほどいて再び出発。7月25日、陸路ルワンプラバーンへ到着する。ムオは彼の生涯の最後の3ヶ月、すなわち1861年8月・9月・10月をルワンプラバーンに近い山や村で過ごす。彼はルワンプラバーンに帰る途中、10月19日、熱病にかかる。「十月二十九日、『おお神よ。余を憐れみたまえ!』」これが、彼の最後の記録になる。それから12日後の11月10日、永眠する。享年35.彼の遺品、つまり、日記の原稿や採集品などは、彼がプライとデンと呼んだ二人の忠実な従者によって3ヶ月後バンコクは持ち帰られる。こうしてムオの日記は、森の中に埋もれることなくヨーロッパに伝わり、まもなく整理出版されて西欧世界の注目の的となる。

2、
ムオの日記には、従来、3つのバージョンがあった。以下、刊行の年代順に列挙する。
(1)The French magazine version (Tour du Monde, 1863, Nos. 196-204).
これは、ムオの死後2年目の1863年、Hachette社が出版する。Tour du Monde誌上に雑誌用に編集されて9回にわたって連載されたもの。最終回の204号の末尾に、F. de L. という編集者のかしら文字あり。
(2)The English book version (Travels in the Central Parts of Indo-china (Siam), Cambodia, and Laos, 2vols, 1864), 
この英語版は、イギリスの the Royal Geografical Societyの斡旋で、同協会所属の出版社Jhon Murrayによって出版されたもの。ムオ自筆の原稿に基づいて編集されており、気象学上の記録、民話、カンボジア語の語彙、博物学上の新発見物の表などを含む。
(3)The French book version (Voyage dans les Royaumes de Siam, de Cambodge, de Laos et autres parties centrales de l'Indochine, 1868).
これは(1)を底本として、Hachette社が1868年に出版したもの。編集者は、Ferdinand de Lanoye。前述のように、Tour du Monde誌の最終回の末尾には F. de L. というかしら文字あり、従って(1)と(3)は同一人の編集になる。昭和17年改造社が出版したアンリ・ムオ著大岩誠訳「タイ・カンボヂァ・ラオス諸王国遍歴記」は(3)の全訳である。
ムオ自筆の原稿は現在ムオ家にあり、Christopher Pymhaは同家の好意により原稿を実見し、それと(2)の英語版と比較して、(2)が最も信頼できるバージョンとされる。

3、
ムオの墓碑は彼の遺体が埋葬された地に1867年に建てられた。前記の(3)の版によると、Doudart de Lagréeは1897年5月24日、次のような文を「欧州」紙に寄せている。
「・・・・彼の死体はルアン・プラバーンから三キロのナム・カン河畔、ナパオの町に近いところに埋葬されている。私は氏の墓側に我々の尊敬を表明し、氏のこの国に於ける思い出を記念するためにささやかな記念碑の建設をラオス当局に願い出た。ラオス王はこの願いを心から喜びをもって許可し、その上記念碑に要する材料一切の提供までも申し出てくれた。私はド・ラポルト氏にその建設を依頼したが、それは長さ一メートル八十センチ、高さ一メートル十センチ、幅八十センチの煉瓦建になる筈である。その一面に嵌められた石にはアンリ・ムオ氏の名と、一八六七年の文字が刻まれることになっている。ド・ラポルト氏は下図を描かれたが、これはド・ラポルト氏の名前によってムオ氏の家族に贈られる筈になっている。」
現在の墓碑は、1887年にAuguste Pavieが建てたものである。 Henri Deydierは、ムオの墓石はBan Phanomにありと言い(Henri Deydier, Introduction a la Connaisseance de Laos, p.125)、近年ここを訪れたPymhaは、墓へ行く道はメコン川の支流のナム・カン川(Nam Khan)に沿っており、Ba Peunomから来た村人にきいたら墓の所在はすぐ判明、墓は、道と川との中間部の森の中の空地にあった、と言う。
Deydierによると1951年にフランス極東学院の斡旋で修理されたというこの墓碑は、山の斜面の藪の中にあり、基部はかなり土中に没して荒廃が甚だしい。前面に嵌められて石板には、次のような文字が刻まれている。
H. MOUHOT Naturaliste 1829-1867
これによると、ムオの生年と没年は1829年ー1867年である。しかし、ムオの生年は諸本の示すところによると、1826年である。一方、ムオの没年は1861年である。それが1867年と刻まれた原因について、Pymhaは最初墓を建てたDoudart de Lagréeは、’H. MOUHOT-Mai 1867'と墓の建設年を刻み、1883年に第二の墓を建てたDr.Meisは1887年をムオの没年とし、1887年に第三の墓を建てたPavieがこれを受け継いだ、と説明している。墓碑の裏面にも石板が嵌められており、文字はかなり磨滅しているが、次のようなものである。

DOUDART DE LAGREE
Fit elever ce tombeau
en 1867
ー - ー
PAVIE
le reconstruisit 
en1887


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