2012年11月26日月曜日

カンボジアと日本人


0章はじめに 
 近年、カンボジアへ旅行に行く日本人は増加傾向にある。内戦終結後、安定手的な経済発展とともに、観光地として環境整備されてきたためであり、また、人的交流もさかんになりつつある。私たちがカンボジアを訪れる2013年は、プノンペンに初めて日系ショッピングモールができるなど、日系資本の本格参入の年とされている。では、このようなカンボジアで日本との関係はいつどのように始まったのだろうか。今回は、日本人を通してみたカンボジアについてまとめてみる。なお、時代をいくつかまたぐので、中世、近代、現代(独立後)、現代(和平後)にわけた通史とする。

1章 中世
1.はじめに
 16世紀、カンボジアには、政治都市プノンペンと貿易都市ピニャールーの二都市に日本人街が形成されていた。ここでは、胡椒などを求めて朱印船貿易が活発であった。残念ながら、それらの痕跡は、全く残っていない。
 一方、16世紀のスペインとポルトガルの宣教師による史料に、カンボジアで日本人の記録がでてくる。この時代、カンボジアにおいても、カトリックの布教が試みられており、最初に入国した宣教師は、1555年に訪れたポルトガル人ドミニコ会士ガスパール・ダ・クルスとされる。その後、多くの宣教師、商人、征服者がカンボジアに入り、様々な活動を行った。それらに伴って、その背後で影響を与えていた日本人について記録をみることができる。

2.交易と日本人
 16世紀末、カンボジアの輸出品は、米、畜肉、魚、皮革、象牙、蝋と漆であった。輸入品は、織り糸、特に絹、朱砂、硫黄、水銀、銅、鉛と磁器などであった。王は、これらの商取引を統制していたが、取引そのものは全面的に中国人の手中にあり、それにプノンペン近辺に居住していた日本人がかかわっていた。

3.宣教師と日本人
 最初に記録がでてくるのが、1584年、マラッカのドミニコ会に所属するダゼベド神父によるものである。当時、カンボジアにおいて、宣教師は迫害を受けていた。カンボジア人は改宗する必要を感じておらず、また、僧侶による反発も大きかった。そのため、彼の小さな教会の信者はチャム人、日本人、ポルトガル商人など外国人ばかりだった。
 他方、日本人は積極的にカトリックへ改宗したわけではなかった。それを物語るのが、1600年前後に起きた宣教師の殺害である。カンボジアで活動した最後のマラッカのドミニコ会の宣教師グループに入るデ・フォンセカ神父は、ミサをあげているとき某日本人によって殺害された。理由は、その日本人の妻を改宗されたからであった。でも、これは致し方ない。

4.スペインによるカンボジア侵略と日本人
 16世紀末、弱体化したカンボジア王国は、西洋人よる個人的な介入を受けていた。個人的とは、国家や宗教などの組織的な支援なくして、カンボジア王国へ政治的な介入を行っていたことを意味する。ポルトガル人ベロソとスペイン人ブラス・ルイスである。彼らは、カンボジア王が宣教師を商取引に利用したのと同様に、今度は、マラッカの政治的支援を得る交渉に利用するために、親衛隊として、サータ王の身近に置かれた。
 1594年、シャムがカンボジアを攻略し、それに乗じて起こったクーデターによって、サータ王は失脚した。ベロソとルイスは、サータ王の王位奪還のため、スペイン領マニラにカンボジア遠征を要請した。そして、フィリピン臨時総督ルイス・ペレス・ダスマリナスの決断により、1596年ファン・クスアレス・ガリィナト将軍のカンボジア遠征が行われた。しかし、その遠征は失敗に終わり、その年の7月にプノンペンを離れた。
 その帰路、事件は起きた。ベロソとルイスは、ガリィナト将軍を説得し、ベトナムに立ち寄って、接収された大型船の返却を求めさせた。ガリィナト将軍は、ベトナム側のグエン=ホアンに使者を出し、カン・トリーに停泊した。グエン=ホアンは、その内容に腹を立て、スペイン人をその場で攻撃せよと厳命した。その命令が届いた、93日、その旅の途中で立ち寄った日本人とカスティーリャ(スペイン)の水夫たちの間で殴り合いのもめごとが起きた。ベトナム人と日本人は組んでガリィナト艦隊を襲撃しようと企てたが、裏をかかれて失敗に終わった。翌94日、スペイン人たちは、あわてて出港し、マニラに帰還した。
 ここに記されていることを要約すると、カンボジア遠征に失敗したスペイン船は、居合わせた日本人との揉め事に起因する襲撃を避けるため、たまたま出港し、ベトナムによる攻撃をさけられたのである。

5.地方長官となった征服者と日本人
 サータ王の死後、ベロソとルイスはその息子のバロム・レアッチア二世を王位に就かすことに成功した。その見返りとして、白人でありながら、1598年、二人はバプノム地方とトレアン地方を与えられ、プーサット、コンポン・スヴァイ、トゥバウン・クムなどの地方から税収入を個人で享受していた。国家が外国人個人に対して、領土を分割したようなものである。
 この少し後の1599年、1隻の日本船がプノンペンに着いた。なぜか、指揮を執っていたのはスペイン・ポストガル混血のゴーベアであった。船上には、軍人で冒険家のアントニオ・マラベールの姿があった。マラベールは、1596年にフィリピンからヌエバ・エスパルタへ向け出発したが、乗っていたガリオン船「サン・フェリペ」が日本沿岸で沈没し、長崎で暮らしていた。その長崎で、シャムへ行くというゴーベアに出会い、その途中、ベロソに会いにやってきたのである。そして、マラベールは、ベロソと組んで一旗あげる可能性を試そうとした。
 1599年、ベロソとルイスはスペインなどの支援のもと、カンボジア王バロム・レアッチア二世と正式な保護条約交渉に入った。しかし、それにより王の一族や高官たちの反感を招き、緊張が高まった。その時、スペイン人たちは、小部隊と民間人ともにプノンペン近郊の中国、日本、マレーなどの外国人居留地に隣接した臨時野営地に陣取っていた。ベロソとルイスがスレイ・サントー都城で王と交渉していたとき、ルイス・オルティス少尉とラクサマナの部下のマレー人との間で暴力事件が起きた。留守を守る臨時野営地の指揮官ビリャファーニェは、負傷した同胞をかばい、長崎から来たゴーベアと日本人たちの支援でマレー人駐屯地を包囲した。急を知らされたラクサマナは、部隊を召集し、カンボジア人をあおり立てて、スペイン人をその野営地と船に閉じ込めてしまった。ベロソとルイスは、王の忠告を無視し、仲間の救出に向かい、結局仲間と一緒に非業の死を遂げた。この闘いで西欧人はほとんど殺されてしまった。
 このプノンペンの惨殺によって、これ以後、スペインによる支配の終焉を意味していた。また、その過程で、日本人が関係していたのだった。

6、日本人の聖地「アンコール・ワット」
 水戸の彰考館には、「祇園精舎」と題するアンコール・ワットの平面図が所蔵されている。この絵図面の研究は伊東博士によって紹介された。大きさは縦68.45cm、横75cm の紙に描かれ、建築物を墨で表わし、水には青、彫像には黄などの色を施した立派な絵図面である。この絵図面には、「アンコール・ワットの十字回廊に4千体の金彩色仏があると記されている。これは、カンボジア人がプリヤ・ポアン、つまり千体仏と呼んでいるところに違いない。その絵図面には、「此君堂蔵本」の印が押されている。此君堂とは立原翠軒のことであり、彼は後に彰考館の総裁となり、文政6年(1823 年)3 14 日、80 歳の高齢で没した。藤原忠奇がこの絵図面の裏側に裏書を書いたのは、安永元年(1772 年)である。翠軒43 歳の時であった。両者の直接的な対面または文通がなかったとはいいきれない。おそらく現存する祇園精舎絵図とその由来を書いた裏書は翠軒が写させ、彰考館に保管したものであろう。この絵図面は藤原忠寄の祖父忠義が、長崎において通辞つうじ某から写し取り、少なくも2度の転写を経たものということになる。原図の製作者は長崎の島野兼了で、製作は、海外への渡航が禁止される1636年以前である。
 島野兼了はオランダ船でカンボジアへ上陸した。本人はインドのマガダ国、また、アンコールをジェタヴァナ「祇園精舎」だとだと思い訪れた。祇園精舎とはインド中部の釈尊(Saka-muni=BC566 頃~BC486 )が修行した僧坊のことである。17世紀初頭の日本では、マガダ国も祇園精舎も南天竺のシャムとカンボジア方面にあると言い伝えられており、カンボジアで暮らしていた日本人にとって、アンコール・ワットは、よく知られた存在であった。
 この史実を裏付ける文献で、アドゥアルテが書いた「歴史」の中のマニラ・ドミニコ会士の話がある。修道士たちは、1603年、イニィーゴ・デ・サンタ・マリア神父の案内でマニラに到着、1604年頃までカンボジアで働いた。アドゥアルテによると、布教した宣教師たちは一人の日本人が到来するのを見た。その日本人は、「阿弥陀仏と釈迦に詣でる旅で訪れたのであり、片方はシャム、もう片方は、カンボジアで生まれたと聞いた。」としている。この敬虔な参拝者は、アドゥアルテに従えば、カンボジア人を「品行が悪く、野蛮で教養もなく堕落している」とみてとって非常に衝撃を受け、衝撃的にカトリックへ改宗してしまったとしている。当時も今と同様な印象をカンボジア人から受けていたようだが、この日本人参拝者がいたという報告は、アンコール・ワットに描かれた森本右近太夫一房の墨書や島野兼了の「祇園精舎」の思想を確証するものである。17世紀初頭アンコール・ワット詣でが盛んであったのだ。

7.近代のカンボジアと日本
 ポスト・アンコール期において、日本人がこれ程カンボジア王国に影響を与えていたことは、あまり知られていない。16世紀末から17世紀初頭にかけて、カンボジアにいた日本人は、政治的にポルトガル人やスペイン人たちの傍らで重要な役割を果たしており、また、経済的にも大きく活躍していた。カンボジアと日本との往来も盛んで、朱印船貿易によって、プノンペンやピニャールーなどの日本人町ができていた。また、そこの日本人によって、「祇園精舎」としてのアンコール・ワットの噂が本国まで伝わり、わざわざ、アンコール・ワット詣でが流行っていたのであった。また、これらは、民間の活動であったが、公的な活動として、1603年、1604年の日本船カンボジア派遣があり、カンボジア王ソルヨポールが16055月に日本の天皇陛下宛てに親書を送っていたと、フランス人学者ノエル・ペリは発表している。
 私たちは、カンボジアの遺跡としてアンコール・ワットを訪れているが、実は、400年前は、日本人の心の聖地であったのである。また、両国の王家の交流など、眠っていた歴史が少しずつ明らかになりつつある。
「祇園精舎」と題するアンコール・ワットの平面図

森本右近太夫の墨書
 

2012年11月10日土曜日

最初にアンコール・ワットを訪れた日本人たち

最初にアンコール・ワットを訪れた日本人たち

(1)有名な森本右近太夫一房の墨書
 17世紀初期、アンコール・ワットを訪れた日本人がいた。肥後の松浦藩士の森本右近太夫一房であり、記録として残っている日本人としては、5番目に古い参拝者である。右近太夫の父の義太夫は、加藤清正の家来であった。右近太夫は、その父の菩提を弔うために、当時、平家物語に出てくる「祇園精舎」だと信じられたアンコール・ワットを訪れたのである。右近太夫は、寛永8年(1631 年)の暮れから9年(1632 年)の正月の間に、松浦藩の朱印船に便乗してカンボジアに到着し、寛永9年(1632 年)、アンコール・ワットの十字回廊に、「父の菩提を弔い老母の後世を祈るため」と記した次の文章を豪筆している。

1 森本右近太夫一房の墨書

寛永九年正月ニ初而此処来ル生国日本
肥州之住人藤原朝臣森本右近太夫
一房御堂ヲ志シ数千里之海上ヲ渡リ一念
之胸ヲ念ジ重々世々娑婆浮世ノ思ヲ青ル
為ココニ仏ヲ四行立奉物也
摂州津西池田之住人森本右近太夫・・・・・・・・
家之一吉○裕道仙之為娑婆ニ・・・・・・・・・・
茲ニ盡ク物也
尾州之国名黒ノ郡後室○・・・・・・・・
老母之魂明生大師為後生・・・・・・・・
茲ニ盡物也
                 寛永九年正月卅日

(2)17世紀のアンコール・ワットと日本
 右近太夫の訪問期というのは、ポスト・アンコール期にあたり、1431年のアンコール朝崩壊後、アンコール・ワットは上座仏教寺院に衣替えした時代である。、ポスト・アンコール期の偉大な王、アン・チャン1世(154676年)はアンコール・ワットを修復し、それ以後、各王がアンコール都城の復興を行い、住民の移住を奨励した。ちょうど同じ頃、西欧の宣教師たちも、この旧都の様子を書き残している。
 一方、日本では徳川家康が慶長8年(1603 年)に幕府を開いた。その時代、外国と日本との往来も盛んで、数多くの日本人が朱印船貿易によって現地へ赴おもき、日本人町を形成していた。カンボジアには、プノンペンと貿易港ピニャー・ルーの2ヶ所に日本人町があった。また、当時の日本人はこの東南アジア地域を南天竺と考えていた。
 しかし、右近太夫がアンコール・ワットを参詣した3年後の寛永12 年(1635 年)には、鎖国の方針が打ち出され、渡航禁止と帰国日本人の踏み絵が発表された。右近太夫は鎖国前のこうしたあわただしい雰囲気の中で帰国したようである。それと時を同じくして、1632 年加藤家は改易となり、すでに肥後(熊本)は細川藩に変わっていた。右近太夫は、松浦藩に仕えた後、父義太夫の生誕の地である京都に移り住んでいた。京都の寺で発見された墓碑には、父義太夫の法名のみ刻み込まれ、森本の俗名はない。しかし、位牌には森本義太夫が1651 年に没し、森本佐太夫(右近太夫)は1674年に没したとある。右近太夫は海外渡航時に使用した実名を隠し、厳しい鎖国令に対して社会的に身を隠す必要があった。そのため、右近太夫が改名し、佐太夫を名乗ったのである。また、森本家の子孫が新たに仕えることになった細川家に対する配慮もあった。

(3)森本右近太夫一房についての伝聞
 森本右近太夫一房の没後も松浦藩にはアンコール・ワットが伝えられていた。平戸の松浦藩主松浦静山の随筆集『甲子夜話』正篇巻21 の中に右近太夫の記述がある。

「清正の臣森本義太夫の子を字右衛門と称す。義太夫浪人の後宇右は吾天祥公の時お伽とぎに出て咄はなしなど聞かれしとなり此人誉て明国に渡り夫それより天竺に住たるに彼国の堺なる流砂川をわたるとき大魚を見たるが、殊ことに大にして数尺に及びたりと云夫それより檀特山に登り祇園精舎をも覧てこの伽藍がらんのさまは自ら図記して携還れり。今子孫吾中にあり正しくこれを伝ふ然ども今は模写なり。」

 『甲子夜話』は文政4年(1821年)11 月甲子の夜に筆を起こし、天保12 年(1841 年)6月に死去するまでの、20年間にわたって書き綴られたものである。ここにある「ここより檀時山に登り祇園精舎をも覧て」とは、「ここより中央嗣堂に登りアンコール・ワットを一覧した」ということである。また、これらの記述から、右近太夫によるアンコール・ワットの絵図が松浦家中に残されていたことを示している。

(4)アンコール・ワットを訪れた日本人たち
 この他、アンコール・ワットの十字型中回廊の壁や柱などには、日本人参詣者の墨書跡が15ヶ所残っている。判読できるこれら落書きの年代は慶長17年(1612年)から寛永9年(1632 年)まで20 年間のものである。この時代は、朱印船の活動が活発であった時代であり、墨筆者は朱印船に搭乗した人たちであった。例えば、慶長17 年(1612 年)度の墨書には“日本堺”と記すものが多く、同地の商人によって送り出された船に乗っていた団体旅行を行ったの人であった。また、朱印船には船の運航に必要な船員の他に、便乗商人というべき客商も少なからず乗り組んでいた。彼らは寄航地において独自に貿易を行ったが、船の商品の上げ下ろしには直接関係がないから、次の出航までの問を利用してアンコール・ワットに詣もうでることも可能であったろう。肥後国の安原屋嘉右衛門尉は、これら客商の一人であった。
また、墨書にある地名として「泉州堺」と「肥前」「肥後」、さらに解読が難しいが「大阪」らしき地名が現れている。つまり、渡航者は平戸、長崎、肥前の出身者が多く、次に堺および大阪商人であった。
 これらの墨書の位置を図2に示す。



2 日本人墨書の位置(十字回廊付近の拡大 ①が森本右近太夫一房の墨書  
 以上、これらの多くの日本人の痕跡がアンコール・ワットに存在し、カンボジアと日本との意外な関係があった。しかしながら、残念なことに右近太夫の墨書は、1970年代の内戦時、ポル・ポト派によって墨で塗り潰されてしまった。そのため、現在は大変読みづらいものとなっている。

2012年9月21日金曜日

アンコール・ワット建立の説話

 エティエンヌ・エイモニエの著書に載せられたプレアハ・ケート・ミアリアによるアンコール・ワット建立の説話、1961年、プノンペンの仏教研究所が刊行する『カムプチュア・ソリヤー(Kambuja Suriya)』誌の連載より、以下、説話の梗概
仏暦600年、上海にルム・セーンという人物がいた。彼は、花売りとして貧しい生活をおくっていた。ある日、インドラ神の天界から、天女たちがルム・セーンの花畑へ遊びに来た。そのとき、天女トゥップ・ソタチャンは、花を6本摘んでしまったことから、罰として6年間下界に住み、ルム・セーンの妻になるよう命じられた。
 1年後、2人の間には男の子が生まれ、地面に絵を描くのが好きなことから、「プレアハ・ピスヌカー」[建築の神ヴィシュヴァカルマン(Visvakarman)に由来]と名づけられた。プレアハ・ピスヌカーが5歳になった時、6年の罰則期間が過ぎて、トゥップ・ソタチャンは天界へ帰っていった。ル
ム・セーンとプレアハ・ピスヌカーは、悲しみにくれた。 そのころ、カンボジアでは王が逝去し、王座は空位になっていた。そこで、インドラ神は自らニワトリに変身し、その肉を食べたものを新王として即位させることに決めた。ゾウ遣いのティアと妻ヴォーンがそのニワトリの肉を食べたところ、王の選定のために王宮から放たれたゾウは、彼ら2人のもとへ来た。さらに、王妃となったヴォーンの枕元にインドラ神が現われ、ヴォーンの身体に花環を落としていった。王妃は懐妊し、月満ちて男の子を産んだ。王子は、「プレアハ・ケート・ミアリア」[「輝く花環」の意]と命名された。
 一方、プレアハ・ピスヌカーは母を失った悲しみが癒されず、母探しの旅へと出掛けた。野を越え、山を越え、たどり着いた丘の上で、プレアハ・ピスヌカーは天女たちを目にした。彼が姿を見せても、1人だけ逃げない天女がいた。彼女こそ母トゥップ・ソタチャンで、ここに母と子は再会を果たした。トゥップ・ソタチャンに連れられて天界へ赴くと、プレアハ・ピスヌカーはインドラ神の計らいで、天界の絵画や彫刻の技術を学ばせてもらった。
 インドラ神は成長したプレアハ・ケート・ミアリアの姿を見ようと思い、彼のもとに降臨した。自らが父であることを明かしたインドラ神は、彼を天界へと連れて行き、天の宮殿を見せた。「お前をカンボジア王にして、天界の宮殿と同じものを地上に建ててやろう」とインドラ神は約束し、プレアハ・ピスヌカーを呼び出して、地上に宮殿を建てるよう命じた。
 仏暦620年、プレアハ・ピスヌカーは彫刻がふんだんに施された宮殿を建てた。その宮殿が、現在まで伝わるアンコール・ワットである。
 宮殿にたいそう満足したプレアハ・ケート・ミアリアは、プレアハ・ピスヌカーに鉄180キロを与えて、剣を作らせた。プレアハ・ピスヌカーは鉄を鍛えて、鋭利で小さな剣を作った。だが、ププレアハ・ケート・ミアリアは、完成した剣が小さいのを目にして、プレアハ・ピスヌカーが残りの鉄を着服したのではないかと疑った。疑われて腹を立てたプレアハ・ピスヌカーは、剣をトンレ・サップ湖に投げ捨て、故郷の中国へと帰っていった。
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出典:「アンコールの近代」

2012年9月9日日曜日

カンボジア宮廷舞踊団とオーギュスト・ロダン


ロダンにも影響を与えた宮廷舞踊
 1906310日、シソワット王や舞踊団80名からなる一行がサイゴンを出発した。611日、一行はマルセイユに到着し、植民地博覧会の場で催された公演は連夜3万人を越える観客を集めた。彫刻家オーギュスト・ロダンは、このパリでの公演を観覧した後、帰路マルセイユへと向かう舞踊団を追って、踊り子を描いたデッサンを残している。そして、踊り子の腕・足・指・腰など、身体の動きについて盛んに言及している。
 オーギュスト・ロダンにとって、カンボジアの舞踊そのものが目にする価値のあるものだった。

図1 1906年 渡仏した舞踊団

図2 1906年 オーギュスト・ロダンによるカンボジア舞踊のデッサン1

図3 1906年 オーギュスト・ロダンによるカンボジア舞踊のデッサン2

抜粋文献
「アンコールの近代 植民地カンボジアにおける文化と政治」
中央公論新社 2006 

2012年8月26日日曜日

カンボジアの宮廷舞踊について

カンボジアの宮廷舞踊について
1431年のシャムのアユタヤ朝によるアンコール王都への侵攻と王都の放棄以降、踊り子や演奏家が多数アユタヤへ連行された。そして、19世紀半ばから20世紀初頭にかけて、カンボジアはシャムの宮廷舞踊から強く影響を受け、今日の宮廷舞踊が形成された。しかし、宮廷舞踊は、フランスによる植民地期の著作や文化政策を通じて、アンコール時代からの「伝統」と見なされるようになった。それは、20世紀初期まで、フランス人の著作のみに見られたが、フランス語教育を受けた知識人が活躍するようになると、その「伝統」はカンボジア人にも受け入れられるようになった。それは独立後のナショナリズムの構成にも影響を与えた。
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「伝統」になった宮廷舞踊団
19世紀半ばのアン・ドゥオン王の治世以降、カンボジアはシャムの宮廷文化から強く影響を受けた。アン・ドゥオン王はシャムの後ろ盾を得て即位したことや、同王を継いで即位したノロドム王とシソワット王が、幼年時代をバンコクの王宮で過ごしたことなどが、タイ文化の影響を受けた理由として挙げられる。宮廷舞踊もまた、こうした影響を受けたものであった。

植民地時代前半のフランス人の主張
1863年、カンボジアがフランスの「保護国」となり、宮廷舞踊もフランス人により記述されるようになった。ジャン・ムーラは、踊り子の衣装が古代の浮彫りと類似するとの主張を展開した。しかし、ムーラは、演目『ラーマキエン』、すなわちタイ版のラーマ物語を挙げ、カンボジア版のラーマ物語『リアム・ケー』と別物と認識していた。また、『アイナウ』という物語もシャム由来として紹介している。ムーラは、アンコールと関連づけてカンボジアの宮廷舞踊を論じているものの、タイ文化の影響も見て取れる記述を行っている。
アデマール・ルクレールの論文は、幼年期をバンコクで過ごしたノロドム王がタイ語を好むため舞踊の演目はタイ語で上演されていること、さらに舞踊団にタイ人の踊り子が所属することに言及している。しかし、ルクレールは、シャムによるアンコール王都への侵攻以降、アンコールの踊り子や演奏家がシャムに連行され、アンコールの舞踊の演目がタイ語に翻訳されたした。そのため、シャムから伝わったとしても宮廷舞踊の起源はアンコールにあるとしている。
しかし、これはシャムで独自の変容を被った可能性を扱わず、アンコールに由来する「伝統」が保存されたとすることだけが主張されたものであった。

植民地時代拡充期のフランス人の主張
ジョルジュ・グロリエは、1911年『古代と現代のカンボジアの踊り子』と題する著書を上梓した。この中で、アンコール遺跡の彫刻に描写された女性は当時の踊り子を表わし、その女性と現代の踊り子との間に、手の仕草の類似が見られると主張した。また、グロリエは、西洋文化の影響によって、観客である王族や高官だけでなく、カンボジアの踊り子自身も踊りの仕草や振付けの意味を理解できなくなっており、カンボジアの踊りが「衰退」の「危機」に瀕していると主張した。
次に、1918年、カンボジア美術学校(Ecole des arts cambodgiens)の初代校長に就任したグロリエは、再びカンボジア美術の「危機」を力説する論文を発表した。1431年のシャム侵略によるアンコール陥落以後、カンボジア美術はシャムの影響を受けたことによって、ポスト・アンコール時代の数世紀にわたる「衰退」を招き、フランスのインドシナ到着時にすでにその「危機」にあったと記した。
その後、カンボジア美術局(Service des arts cambodgiens)の局長となったグロリエは、1927年、カンボジアの舞踊の現状を報告する文章を理事長官府に提出した。その中で、舞踊の「衰退」という記述は繰り返され、フランス行政当局が保護に着手するように訴えた。その根拠として、シャムはアンコールから踊りのテクストや儀礼性を借用し、翻訳したと述べ、また、14世紀以降、踊り子が多数アユタヤへ連行されたことも取上げ、踊りの起源をアンコールに求めている。そして、1928年から29年のうちに改革が達成されれば、1931年に予定されているパリ植民地博に間に合うと報告書を結んでいる。
この報告書が提出された1927年、カンボジア理事長官府はシソワット王に圧力をかけ、宮廷舞踊団の管理をフランスに委譲する勅令を発布させた。それにより、グロリエが局長を務めるカンボジア美術局が宮廷舞踊団を管理することとなった。その事項に関するフランス側の反応として、サッポ・マルシャル(Sappho Marchal)は論文の中で、『カンボジア美術局局長にして、クメールの国の親友たるグロリエ氏は、踊りが消滅するのを放置しておけなかった。彼は伝統を記述し、また、シソワット王の承認と保護国の援助のもと、踊りの再組織化に着手した。原因は信頼しうる人物の手に委ねられており、すでに解決されつつあるといえる』としている。
しかし、その舞踊団は1930年にカンボジア美術局から王宮へ返還された。その結果、フランスは間近に迫ったパリ植民地博覧会に舞踊団を派遣することが困難になった。そこで、白羽の矢が立てられたのが、宮廷舞踊団の元構成員で王族の妻となりながら、王宮内での対立から民間で観光客相手の舞踊団を組織していたソーイ・サンヴォンだった。渡仏したソーイ・サンヴォンは、アンコール・ワットの模型を舞台として公演し、民間組織でありながら、当時の雑誌記事に「宮廷舞踊」として紹介されていた。
帰国後も、ソーイ・サンヴォンの舞踊団は優遇され、フランス行政当局からの補助金や、グロリエの指揮下にある美術学校で政策された踊りの仮面や装飾品が与えられたほか、アンコール・ワットを訪れた観光客に対して遺跡で公演を行なう独占権が付与された。

偏重した論説への批判
上記のように、「伝統」「衰退」「保護」をめぐるグロリエの言説は、フランスの植民地行政当局を動かし、王宮から宮廷舞踊団を奪った。このグロリエの言説は、フランスが植民地支配を正当化するために行われた言説と密接に結びついており、アンコール遺跡や「領土」の「保護」する言説と構造を同じくする。
ポール・クラヴァットは、グロリエが語るシャムによる「衰退」を誇張であると批判し、1913年から14年にかけて、王宮内にチャン・チャヤー舞踊殿が建立されていることから、宮廷舞踊に対する王宮の意識は高かったと述べている。さらに、衣装の変更に見られるタイ文化からの影響を論じている。また、グロリエ自身もノロドム王の舞踊団にはタイ人が多数所属し、シソワット王治下現在でも、2名を除けば踊りの教師は全員タイ人であることを紹介している。グロリエ自身も植民地時代前半のフランス人の主張にあるように、宮廷舞踊はシャムからの影響を受けていると認めつつも、宮廷舞踊をアンコールに由来する「伝統」とすることに腐心していたのであった。そして、その「伝統」が失われたと嘆くことにより「帝国主義的ノスタルジー」を興起させ、フランスが宮廷舞踊に介入する口実を作り上げた。
1927年、宮廷舞踊団はフランス側の管理となった。しかしながら、その舞踊団の「改革」は、宮廷文化の担い手であるという自負を持つ舞踊団の成員にとって、容認しうるものではなく、成員の抵抗や人材不足に陥った。1930年、フランスは舞踊団の管理を断念した。宮廷舞踊団を失ったフランスは、ソーイ・サンヴォンの舞踊団という新たな「伝統」の護持者を選び、「伝統」の「保護」を遂行し、植民地支配を正当化し続けた。


シハヌーク時代の宮廷舞踊
1930年、カンボジア美術局から王宮に宮廷舞踊団が返還されて以降、王宮内では舞踊団を再建する試みが見られた。こうした舞踊団再建の試みは、独立後のカンボジアで宮廷舞踊が国民文化へ取り込まれていく第一歩となった。

シソワット王の逝去を受けた舞踊団成員の脱退や、カンボジア美術局による管理の結果、舞踊団は人材不足という問題を抱えていたため、再建は人材養成から始められた。シソワット期の舞踊団に所属していたクン・ミアックは、王宮に20人ほどの少女を集めて踊りの訓練を行った。数年後には、シハヌークの母コサマックがクン・ミアックの舞踊団を引き継いだ。
1942年11月、ベトナムのバオダイ帝がプノンペンを訪問し、歓迎式典で踊りを披露することが決定した。フランスの植民地行政当局はソーイ・サンヴォンの舞踊団を推薦したが、カンボジア側はコサマックの舞踊団が担当することを主張した。このバオダイ帝の歓迎式典がシハヌークの誕生日の式典と重なったこともあって、最終的にカンボジア側の主張が通り、初舞台となったコサマックの舞踊団の公演は成功を収めた。
1953年の独立前後、コサマックは舞踊団の改革を行なった。変更点は多岐に渡る。19世紀半ばのアン・ドゥオン王の治世以降、宮廷舞踊団の踊り子は女性に限定されていたが、ラーマ物語のサル役などに男性が起用されるようになり、また、王族の娘も舞踊団に加わるようになった。宮廷儀礼としての夜を徹した上演形式から、時間が短縮された。そして、カンボジアを訪れた海外の要人を前に宮廷舞踊が上演され、シハヌークの外遊に際しては舞踊団も同行して海外公演を行うようになった。
コサマックの改革のなかでも、アンコール遺跡の浮彫りを模した「アプサラー・ダンス」などの新しい演目が創られたことは、アンコールをめぐる言説との関連という観点から意義が大きい。シハヌークの娘ノロドム・ボッパテヴィーが演じるアプラサラー・ダンスはカンボジアの王族がアンコールから続く「伝統」を体現すると見なされ、しばしば写真入りで雑誌に紹介された。一方、シャムから影響を受けた『アイナウ』なども引き続き演じられた。
このように、コサマックの舞踊団の改革によって、独立後のカンボジアで宮廷舞踊が政治的な役割を担っていった。

カンボジア人の認識による宮廷舞踊をめぐっては、1930年代より、アンコール時代からの「伝統」と見なす語りが国家の公式見解とされた。その影響を与えたのがチュオンの書であった。1956年、チュオンの書が仏教研究所から再版された。さらに1964年には、フランス語版の教育雑誌にチュオンの書からの抜粋が掲載された。チュオンの書以外にも、カンボジアの情報省が刊行していたフランス語の雑誌では、アンコールの浮彫りと類似点が見られる宮廷舞踊は「伝統」であると紹介されていた。このように、フランスにより論じられたアンコールからの「伝統」が独立後のカンボジア政府でも維持された。

ロン・ノル政権下の宮廷舞踊
宮廷舞踊に関する言説は、シハヌーク時代に流布した言説と連続したものであった。しかし、ロン・ノル政権が反シハヌーク、反王政という性格を持っていたため、「宮廷舞踊」を「古典舞踊」へと名称が変更され、舞踊団も王宮から芸術大学へ移管された。

ポル・ポト政権下の宮廷舞踊
1975年、ポル・ポト政権成立後、直ちに開始された都市からの強制移住により、舞踊団の成員も地方へ送られ、既存の文化を否定する同政権の政策により、宮廷舞踊が上演されることはなくなった。

ヘン・サムリン政権下の宮廷舞踊
人民革命党政権の成立を受けて、地方で生き残った舞踊団の成員も徐々にプノンペンに戻り、舞踊団や芸術大学の復興が始まった。また、タイ国境や難民キャンプやフランス、アメリカでも、宮廷舞踊や民間舞踊を演じる団体が設立された。

カンボジア王国成立後の宮廷舞踊
1993年の新王国成立後、アンコール・ワットを舞台に開催されたラーマーヤナ・フェスティヴァルでは、文化芸術省の舞台芸術局に所属する舞踊団が宮廷舞踊と民間舞踊を上演した。また、西暦2000年を祝う式典でも、同様の公演が行われた。この式典はカンボジアのテレビ各局によって生中継され、アンコール時代から続く「伝統」として宮廷舞踊を紹介した。

以上のように、宮廷舞踊は植民地博覧会やフランス人の著作を通じて「伝統」が創り出され、チュオンによって受容された言説によって、今なおカンボジアで命脈を保っている。またそれは、日本へ紹介される場合にも引用され、某旅行ガイドブックにおいて、宮廷舞踊として最も有名なのは、アンコール遺跡の彫刻とかんれ付けされた『アプサラの踊り』とされ、国の文化復興政策の一環として王立舞踊団が紹介されている。

抜粋文献
「アンコールの近代 植民地カンボジアにおける文化と政治」
中央公論新社 2006 

2012年3月21日水曜日

ラテライト


「ラテライト」とは
 カンボジアの大地はメコン川によって運搬されて沈殿した真赤な砂質土層からなる。この堆積土は長年月の強風化をうけ、高温・多湿・雨水のために非金属元素が分解し流失し、鉄とアルミニウムのような元素が水酸化や酸化物として残った結果、形成される。

2012年3月18日日曜日

書評「西欧が見たアンコール」

西欧が見たアンコール―水利都市アンコールの繁栄と没落 [単行本] ベルナール・P. グロリエ (著),  石澤 良昭 (翻訳), 中島 節子 (翻訳)

内容
世界の中で最も美しく最も清潔な都。アンコールワットは誇大妄想狂の王が自分の来世のために作ったものではない。都城は巧みな水路網と一つのシステムでつながり、時間と空間が秩序づけられていた。その体系は、クメールの人々の生の源泉であった。

単行本: 325ページ
出版社: 連合出版 (1997/11)
ISBN-10: 4897721350
ISBN-13: 978-4897721354
発売日: 1997/11
商品の寸法: 21 x 15.2 x 2.6 cm
書評
本書について
カンボジアの歴史といえば前アンコール時代、アンコール時代、フランス植民地時代区分となる。だが、アンコール朝崩壊直後からのポスト・アンコール時代についてはあまり知られていない。本書は、史料が不足し、空白であった歴史を埋めるものである。とはいいながら、16世紀~18世紀における史料は、ごく限られている。カンボジア側の史料として「王朝年代記」があるが、編纂された時代によって内容が異なっている。そこで、西欧側の史料、特に、イスパニア人やポルトガル人が残した報告書を校訂し、集大成したものが本書である。


本書を読んでいくにつれ、癖のある言い回しが煩わしくなり、著者が断定した事項がはっきりとせず、大変読みづらいことにイライラした。でも、その内容は、これまでのカンボジアの知識にはない、全く新鮮なものであり、大変、興味深かった。ポスト・アンコール期については、他の本で簡単に説明されている。しかし、本書を読むにつれ、その時代の重要な点は、いかに王位を奪い、そして他国の影響下、どのように国家を維持するかであることが判る。史料が西欧人の報告書によるものなので、情報が偏っているが、当時の社会情勢を明らかにしようとした著者の試みは、大変、意義のあるものだと思う。
また、アンコール遺跡については、16世紀中葉から西欧人による記録があるようだが、内容は概略的で、その本質を上手に伝えるものではないと感じた。それは、彼らの目的が、キリスト教伝道か、カンボジアの保護国化であったためであろう。
最後に、当時の社会を生きること自体が、命がけであったことがひしひしと伝わってきた。それは、カンボジア王側であり、また、伝道に来た西欧人側ものそうであった。船の難破による数多くの犠牲者、弾圧による監禁、民族の反乱などなど、自然の驚異や不安定な社会情勢に沿った生活が、当時のカンボジアの実情であったのかもしれない。


内容のまとめ
本書を読んで驚いたのが、1431年のアンコール都城放棄後、カンボジア王国は完全に衰退したとの印象が付きまとっていたが、その後も新たな王都を造営し、国内を平定、シャム軍を撃退していたことである。アン・チャン王は、アユタヤまで攻め入り、次のバロム・レアッチア一世はタイ・コーラット地方を占領した。そして、アンコール遺跡周辺に居城を構えていた。その息子サータ王は、アンコール遺跡の修復を施している。しかし、1594年に再びシャムによって王都が陥落し、これ以後、イスパニア、シャム、アンナンの影響下に入ってしまう。
カンボジアを訪れた西欧人の記録として最初のものは1555年であり、1583年から1589年にかけてアンコール遺跡を訪れている。

しかし、本書に記された内容は、国家というものを疑いたくなるものである。16世紀後半、ポルトガル人とイスパニア人の個人による政治介入を受けていたのには驚きだった。彼らは、王の従姉妹と結婚し、また、王から領土を与えられていた。そして何よりも、彼らの行動がバロム・レッチア二世を即位させていた。シャムの脅威に西欧の力を借りようとしたのだが、その弱身につけこまれた形になったようである。

それらとは、別に、日本人によるカンボジアでの活動が活発であったことは、新鮮な情報である。プノンペンに日本人街を形成し、中国人・インド人たちとともに、カンボジアの商業を行っていた。また、その動向が社会不安となり、西欧人虐殺へつながり、 それが西欧による王宮の介入が途絶えるきっかけとなっていた。また、アンコール・ワットを祇園精舎として参拝する日本人も記録されていることは大変興味深い。

以上のほかにも、数々の面白い事項が記載されており、新鮮な内容であった。

書評「インドシナ王国遍歴記」

インドシナ王国遍歴記―アンコール・ワット発見 (中公文庫BIBLIO) [文庫] 
アンリ ムオ (著)
内容
19世紀に初めてアンコール・ワットを詳細に報告、世界を驚嘆させた、フランスの探検家アンリ・ムオ。1858年よりシャム(現在のタイ)、カムボジァ、ラオスを巡って著した貴重な紀行。

文庫: 361ページ
出版社: 中央公論新社 (2002/02)
ISBN-10: 412203986X
ISBN-13: 978-4122039865
発売日: 2002/02
商品の寸法: 15 x 10.6 x 1.6 cm

書評

本書について
アンリ・ムオ(1826~1861)は、「ロンドン科学協会」により派遣され、1858年から1861年にかけてタイ・カンボジア・ベトナム・ラオスを調査探検したフランスの博物学者であり、西欧においてはアンコール遺跡を紹介したことで名高い人物である。ムオは、1858年4月27日ロンドンから乗船、同年9月12日にシャムに到着した。その後、バンコクを基点にして3年間各国を旅し、1861年ルワンプラバーンの近くで熱病にかかり、35歳の若さで亡くなった。

そのアンリ・ムオの旅行記は、旅行雑誌(Tour du Monde, 1863, Nos. 196-204)に9回にわたって連載された。本書の原本は、それを底本にFerdinand de Lanoyeがまとめ、(Voyage dans les Royaumes de Siam, de Cambodge, de Laos et autres parties centrales de l'Indochine, 1868)として出版したものである。大岩誠は、そのフランス語版本を翻訳し、「『シャム、カムボヂァ、ラオス諸王国遍歴記』 1942年、改造社」として出版した。そして、2002年に現代語表記に修正され、「インドシナ王国遍歴記」と題し、中公文庫BIBLO版として再出版されたのである。よって、本書の地名表記や訳注は、当時の実情のまま、残っている。

翻訳者の大岩誠(1900~1957)は、戦前、東南アジア・南アジアの独立運動の研究を行なっていた。日本がフランス領インドシナを統治した1941年~1945年まで、現地の情報を知ることは大変、意義のあることであった。他の訳本に「『印度支那 フランスの政策とその発展』1941」や「『カムボヂア民俗誌 クメール族の慣習』1944」がある。

内容について
アンリ・ムオについては、「アンコールの発見者」として知っていたので、アンコール遺跡を基軸に、大々的な表現で記されていると思っていた。よくある誇張された内容の書籍の場合、信用性の低いものあるので、流し読み程度で読み始めると、それは全くの誤りで、著者の観察眼の鋭さによる面白さに引込まれて何度も読み返してしまった。
また、アンコールについて、彼は「発見した!」とのような一番乗り的な感情は欠片もなく、ただ、彼の遺跡を見た時の純粋に感動をそのまま読者へ紹介したいという熱意が伝わってくるものであった。アンコール・ワットを最初に見たとき、彼は
「何気なく東の方に眼をやって、思わず驚歎の眼をみはってしまった。」
と、その最初の驚きを述べ、その芸術については、
「近づいて見た建物の細部の美しさ、仕上げの壮麗さなどはまた、遠くから眺めた見事な絵画的効果あるいは荘重な線の効果に優るとも決して劣るものではなかった。幻滅を感じるどころか、近づくにつれ心から驚歎と歓喜を感ずる。」
と、まさに現地を歩き見た感動を、そのまま表現している。
そして、彼はこの巨寺の規模と、雄弁に語る石を伝えるため、アンコールに3週間滞在して平面図とスケッチを行い、創建伝説・滅亡伝説などの情報を集め、その時代のカンボジアやシャムの王の対応なども記している。
彼のアンコールに対する記述は、その博識な表現とその情報収集の高さによって、そこに秘められた可能性を引き出して、魅力的に伝えていると思う。
確かに、彼よりも以前にアンコール遺跡を訪れ、報告した西欧人は、大勢いるが、それを伝えようとした熱意、表現能力は彼に及ばない。彼の旅行記が運良く雑誌「世界旅行」に掲載され、西欧社会に与えた影響は、「アンコールの再発見者」と位置づけされるものだと思う。

ところで、本書の内容のほとんどは、アンコール以外の部分で構成されている。彼の旅行の目的は、自然科学を究めることであり、未踏査であったインドシナの数々の山脈を超え、メコン川を中国国境まで遡ろうとしていたらしい。
彼は、シャム王やカンボジア王に謁見して、その慣習を伝え、また、過酷なジャングル生活を行い、そこの地勢や山岳民族の風俗を観察し、情報を収集して記録していった。本書の魅力は、当時のありのままの情勢を活き活きと伝えてくれることだと思う。

私が印象に残ったのが、当時の人々の生活、人柄がよく伝わってきたことである。高慢な役人の態度や、チャム人の反乱の時に役人のとった逃避などは、第三者の目線でないと正確には伝わらないことだと思う。また、カンボジア王との会談では、欧風の家具が備え付けられた王の私室で、「マルセイエーズ」を蓄音機で聴きながら、収集している骨董品を披露してもらった。その席で、王は唯一知る英語で「いいブランデーだ」と言って、ムオに勧めたそうである。王の人となりがわかって、大変、興味深い。

しかし、ムオの冒険にかける熱意には、本当に脱帽する。旅行中、彼の犬は虎や豹に襲われ、ジャングルで道を失ったときは野獣の襲撃をさけるため、咆哮が聞こえる中で樹上に潜んで一夜を明し、また、彼自身も9頭の象に襲われたりした。
脅威は、陸だけではなかった。暗闇の中、海上を船で進んでいるとき、岩礁にぶつかって船首が跳ね上がり、そこで寝ていた子供が投げ出されてしまった。なんと、その子は船をずっと追尾していた2頭のワニに食べられてしまった!当時のカンボジアは、本当に大自然と隣り合わせの生活であった。

ここまでして、ムオを探検に駆り立てたものはなんだったのだろうか。剥いだばかりの猿の皮や、荷造りをするばかりになった昆虫の分類箱などが散らかる中、彼は、
「土地の研究というものは、それを楽しむことを知る者にのみ許された喜びを持つものである。」
と述べ、さらに、現地の情勢をありのままの姿を紹介し、言い伝えを記載して、今後の探検家の道しるべとなることを希望していた。

過酷な大自然の道程の中であっても、その美しさに感動できる心情。社会の矛盾を的確に見抜く眼力、新種の貝の発見や、芸術的な価値を評価できる博物学的な視点は、読者をのめり込ませる魅力だと思う。
本書の読みどころは、アンコール遺跡もそうだが、当時の都市の人々の様子や、少数民族の慣習などを知ることができる点だと思う。


2012年3月11日日曜日

アンリ・ムオ

アンリ・ムオについて、「『史学』第四十一巻 第二号、木村宗吉著、1968年」に詳しく紹介さている。ここでは、それを一部編集して掲載する。

*******************************

1、
アンリ・ムオ(1826~1861)は、1858年から1861年にかけてタイ・カンボジア・ベトナム・ラオスを調査探検したフランスの博物学者であり、アンコール遺跡を西欧へ紹介したことで名高い人物である。
アンリ・ムオ(Alexandre Henri Mouhot)は、1826年5月15日、フランスのドゥー県(Doubs)モンベリアル(Montbéliard)で生まれた。18歳のときロシアへ行き、フランス語の家庭教師をしたり、陸軍士官学校でフランス語を教えたりしたが、休暇を利用してポーランドやクリミア半島へ旅行した。1854年、フランスへ帰った。クリミア戦争が起り、フランスとロシアの関係が悪化した年である。1856年、渡英して結婚。妻はアフリカ探検家として有名なMungo Parkの一族であり、ムオはParkと縁つづきになったことを名誉としたようである。ムオは1858年4月27日ロンドンから乗船、4ヶ月半を経て、9月12日チャオプラヤー川の河口にあるパークナムに到着した。ラーマ4世治下のタイ国である。「パークナムは、シャム王にとってセヴァストポリ要塞やクロンスタット要塞にあたる。けれども、ヨーロッパの一艦隊なら簡単にパークナムを制圧し、パークナムで朝食をとった艦隊司令官は、その日の夕飯をバンコクでとるであろう、と私は空想した。」彼はこう書いている。
ムオは以後、1861年ルワンプラバーン(LuangPhrabang)の近くで死ぬまでの3年間、バンコクを基地として、4つの旅行をおこなっている。
第1回目は、1858年10月から12月まで。チャオプラヤー川を小舟でさかのぼり、5日をついやしてアユタヤに行く。また、プラプッタバートやサラブリー(Saraburi)を訪れ、12月バンコクへ帰る。
第2回目は、1858年12月末から1860年4月まで。主としてカンボジア旅行。ムオはバンコクで漁船に乗り、1859年1月4日、チャンタブリーに着く。彼は小舟を買って付近の島々を訪ねたり、チャンタブリー(Chanthaburi)の近くの野山を歩いたりして約3ヶ月を費やす。その後、海路カンボジアのカンポットに行く。そこから、陸路、旅を続けて当時の首都ウドンに至った。ついで、ウドンに近いピニャール(Vihear Luong)に行き、7月の大半をそこで宣教師とともに過ごす。ムオは東北カンボジアのスティエン族を調査するため、プノンペンに出て必要な品物を整えてから、コンポン・チャム付近までメコン川をさかのぼる。そこから東へ向って陸路困難な旅を続け、8月の中頃、目的地であるベトナムのブレルム(BinhLong)に到着する。ブレルムは宣教師の前哨基地ともいうべき所、彼は宣教師の客としてそこに3ヶ月半滞在してスティエン族の観察を続け、彼らの衣・食・住・農耕・結婚・葬式・祭り・信仰などについて興味ある記述を残している。1859年11月末ブレルムをたち、クリスマスの数日前、プノンペンに帰ってくる。そこから北上、トンレサップ川を船で渡る。「湖水のまんなかに高い棒杭が立っており、それがシャム王国とカンボジア王国の境界を示している。」と、彼は書いている。ムオは、1860年1月バッタンバンの一宣教師の案内で、アンコールに行き、そこに3週間滞在してアンコール・ワットやアンコール・トムなどの遺跡を調査、3月5日バッタンバンをたち、4月4日無事15ヶ月にわたる旅を終えてバンコクに帰って来る。
第3回目は、1860年5月から8月まで。ペチャブリー(Phetchaburi)の山中で過ごす。バンコクに帰ってからラオスへの旅を準備する。
第4回目にして最後の旅は、1860年秋から1861年11月まで。秋バンコクを出発して翌1861年2月末、チャイヤプール(Chaiyaphum)まで進むが、旅に必要な象や牛が得られず、やむ得ずバンコクは引き返す。バンコクに半月ほどいて再び出発。7月25日、陸路ルワンプラバーンへ到着する。ムオは彼の生涯の最後の3ヶ月、すなわち1861年8月・9月・10月をルワンプラバーンに近い山や村で過ごす。彼はルワンプラバーンに帰る途中、10月19日、熱病にかかる。「十月二十九日、『おお神よ。余を憐れみたまえ!』」これが、彼の最後の記録になる。それから12日後の11月10日、永眠する。享年35.彼の遺品、つまり、日記の原稿や採集品などは、彼がプライとデンと呼んだ二人の忠実な従者によって3ヶ月後バンコクは持ち帰られる。こうしてムオの日記は、森の中に埋もれることなくヨーロッパに伝わり、まもなく整理出版されて西欧世界の注目の的となる。

2、
ムオの日記には、従来、3つのバージョンがあった。以下、刊行の年代順に列挙する。
(1)The French magazine version (Tour du Monde, 1863, Nos. 196-204).
これは、ムオの死後2年目の1863年、Hachette社が出版する。Tour du Monde誌上に雑誌用に編集されて9回にわたって連載されたもの。最終回の204号の末尾に、F. de L. という編集者のかしら文字あり。
(2)The English book version (Travels in the Central Parts of Indo-china (Siam), Cambodia, and Laos, 2vols, 1864), 
この英語版は、イギリスの the Royal Geografical Societyの斡旋で、同協会所属の出版社Jhon Murrayによって出版されたもの。ムオ自筆の原稿に基づいて編集されており、気象学上の記録、民話、カンボジア語の語彙、博物学上の新発見物の表などを含む。
(3)The French book version (Voyage dans les Royaumes de Siam, de Cambodge, de Laos et autres parties centrales de l'Indochine, 1868).
これは(1)を底本として、Hachette社が1868年に出版したもの。編集者は、Ferdinand de Lanoye。前述のように、Tour du Monde誌の最終回の末尾には F. de L. というかしら文字あり、従って(1)と(3)は同一人の編集になる。昭和17年改造社が出版したアンリ・ムオ著大岩誠訳「タイ・カンボヂァ・ラオス諸王国遍歴記」は(3)の全訳である。
ムオ自筆の原稿は現在ムオ家にあり、Christopher Pymhaは同家の好意により原稿を実見し、それと(2)の英語版と比較して、(2)が最も信頼できるバージョンとされる。

3、
ムオの墓碑は彼の遺体が埋葬された地に1867年に建てられた。前記の(3)の版によると、Doudart de Lagréeは1897年5月24日、次のような文を「欧州」紙に寄せている。
「・・・・彼の死体はルアン・プラバーンから三キロのナム・カン河畔、ナパオの町に近いところに埋葬されている。私は氏の墓側に我々の尊敬を表明し、氏のこの国に於ける思い出を記念するためにささやかな記念碑の建設をラオス当局に願い出た。ラオス王はこの願いを心から喜びをもって許可し、その上記念碑に要する材料一切の提供までも申し出てくれた。私はド・ラポルト氏にその建設を依頼したが、それは長さ一メートル八十センチ、高さ一メートル十センチ、幅八十センチの煉瓦建になる筈である。その一面に嵌められた石にはアンリ・ムオ氏の名と、一八六七年の文字が刻まれることになっている。ド・ラポルト氏は下図を描かれたが、これはド・ラポルト氏の名前によってムオ氏の家族に贈られる筈になっている。」
現在の墓碑は、1887年にAuguste Pavieが建てたものである。 Henri Deydierは、ムオの墓石はBan Phanomにありと言い(Henri Deydier, Introduction a la Connaisseance de Laos, p.125)、近年ここを訪れたPymhaは、墓へ行く道はメコン川の支流のナム・カン川(Nam Khan)に沿っており、Ba Peunomから来た村人にきいたら墓の所在はすぐ判明、墓は、道と川との中間部の森の中の空地にあった、と言う。
Deydierによると1951年にフランス極東学院の斡旋で修理されたというこの墓碑は、山の斜面の藪の中にあり、基部はかなり土中に没して荒廃が甚だしい。前面に嵌められて石板には、次のような文字が刻まれている。
H. MOUHOT Naturaliste 1829-1867
これによると、ムオの生年と没年は1829年ー1867年である。しかし、ムオの生年は諸本の示すところによると、1826年である。一方、ムオの没年は1861年である。それが1867年と刻まれた原因について、Pymhaは最初墓を建てたDoudart de Lagréeは、’H. MOUHOT-Mai 1867'と墓の建設年を刻み、1883年に第二の墓を建てたDr.Meisは1887年をムオの没年とし、1887年に第三の墓を建てたPavieがこれを受け継いだ、と説明している。墓碑の裏面にも石板が嵌められており、文字はかなり磨滅しているが、次のようなものである。

DOUDART DE LAGREE
Fit elever ce tombeau
en 1867
ー - ー
PAVIE
le reconstruisit 
en1887


書評「アンコール・ワット 大伽藍と文明の謎」

アンコール・ワット―大伽藍と文明の謎 (講談社現代新書) [新書]
石沢 良昭 (著) 




内容
インドシナ半島の中央に次々と巨大な寺院を完成させたアンコール王朝。建造に費した年月は。回廊に描かれた物語とは。なぜ密林に埋もれたのか。遺跡研究の第一人者がカンボジア史を辿りながら東南アジア最大の謎に迫る。

著者紹介
1937年、北海道生まれ。1959年、上智大学外国語学部卒業。現在、上智大学外国語学部長。専攻は古クメール語碑刻文学。主な著書に『古代カンボジア史研究』―国書刊行会、『甦る文化遺産――アンコール・ワット』―日本テレビ出版部―などがある。


新書: 215ページ
出版社: 講談社 (1996/03)
ISBN-10: 4061492950
ISBN-13: 978-4061492950
発売日: 1996/03
商品の寸法: 17.4 x 10.4 x 1.2 cm




書評
本書は、著者の碑刻文研究の成果を基に、前アンコール時代から、フランス植民地時代のアンコール研究に至るまでの社会を、人々の動的な描写によって、わかりやすく解説しているものである。

しかし、本書の最大の特色は、当時の人々の様子をいきいきと写し出していることである。
例えば、寺院の浮き彫りには王宮や都城周辺の生活が描かれており、そこで民族衣装をつけた人々が働いている姿を解説している。また、寺院の建設では、浮き彫りおよび遺跡に残された痕から、石切場や石積み様子などを描写している。
また、チャンパとの戦争について、史実に肉付けする形で、寺院の戦闘場面の浮き彫りを臨場感溢れる描写しており、解りやすい構成となっている。
そして、アンコール・ワットの浮き彫りでは、その宗教・技術の頂点の根拠のみならず、それを描いた人々の生活光景を読み解くことを教えてくれている。そのひとつとして、ジャンク船や家族の描写がある。
それらは、著者の長年の研究の考察結果をわかりやすく示しているものである。
最後に、王の崇敬については、シハヌーク前国王の行幸を採り上げ、伝統的な王への姿勢から、読者にアンコール時代の王を想像させ、とても受け入れやすい内容になっている。

本書を遺跡を訪れる前に読むことにより、その場で当時の風景を想像する面白みを感じることできると思う。


内容のまとめ
本書は、タイトルにある「大伽藍と文明の謎」を解明しようとするものである。換言すれば、アンコール文明を構成していた政治・社会・経済を考察し、社会基盤整備及び寺院建立を可能にした「高度な技術」及び「宗教的背景」を通史の形で明らかにしたものである。そして著者は、専門である碑刻文などの文献と、アンコール地方の地勢から、その根拠を示している。

政治・社会・宗教からの寺院建立
アンコール時代の王は、王位継承戦により実力で登位していた。その正当性を誇示するため、初代王が転輪聖王の儀式を行なったアンコールに都城を築いた。つまり、アンコール地域は王権の永続性を保証する聖地であった。
また、当時の政治は、インドからもたらされた概念を基底にして、宗教的な要素が強かった。王は、王国の発展と平安を保証するという精神から、「神の世界」と同じ中心寺院を地上に築いた。そのことにより、アンコール地域に多く寺院が建立さていったのである。そして、王自身は「現人神」として王国の卓越した保護者として神聖化された。
それらを継承することが、王位の正当性を主張することでもあった。そのための祭儀を執り行ったのが王師職である。この宗務官は、インドから渡来した人々バラモンと称したもので、世襲色・寡頭色が強い職柄であった。また、王は、前任王の親族と形式的に婚姻することにより王位継承の正当性を主張したのであった。
以上のように、アンコール王朝は政祭一致的な色彩の強い政治体制であった。

農業経済を支えた社会基盤整備と寺院建立
王は、各寺院にて五穀豊穣の祭儀も行なっていた。アンコール地方は、常に水がなければ耕作ができない地勢であった。また、雨水は短期間に過剰に降り、それをどのように排水し、乾季に備えてどのように貯水するかが課題であった。その実現のため大貯水池バライを建造し、集約的農業を可能にした。
つまり、王による都城と寺院の造営はその地域の守護神的役割を果たすという精神面と同時に、地域開発の側面を併せ持ち、農業生産の増加を生み出した。
また、その緻密に計算された水利灌漑網を維持管理していたのは、「村の地主」であり、彼らが水門の調節や河川の浚渫を行なっていた。彼らによって支えていた豊かな農業経済を背景に、アンコール時代の王朝の発展と、壮大な寺院の建立が可能となっていた。
しかし、その経済的繁栄を支ていた水利網の維持は長期的には困難であった。高低差のないアンコール地域では、流速がゆっくりのため沈殿堆積作用により、機能しなくなった。また、新しい水路・貯水池の開削は、飽和状態の耕作地利用のため、不可能であった。そして、水路網が機能しなくなると、土壌の酸性化が進み、田地は荒蕪化してしまった。そのことが、アンコール王朝の衰退の要因のひとつとなった。


2012年2月27日月曜日

書評「石が語るアンコール遺跡 ―岩石学からみた世界遺産」


石が語るアンコール遺跡 ―岩石学からみた世界遺産 (早稲田大学学術叢書) [単行本]
内田 悦生 (著), 下田 一太(コラム執筆) (著)


内容紹介
アンコール遺跡では、石材が遺跡建造に関する多くの重要な謎を語る。文化財科学による最新の調査・研究成果をわかりやすく解説するほか、建築学の視点からみた遺跡にまつわるコラムを掲載。専門家のみならず、一般の読者が世界遺産を堪能するための必携書。 

単行本: 268ページ 
出版社: 早稲田大学出版部; A5版 (2011/3/30) 
言語 日本語 
ISBN-10: 4657117041 
ISBN-13: 978-4657117045 
発売日: 2011/3/30 
商品の寸法: 21.4 x 15.4 x 2.2 cm 

書評
はじめに
アンコール遺跡はどうやって造られたのだろうか。つまり、当時の人々は、どのような建築知識・技術を持っていたのだろうか。これまで、アンコール遺跡について、建築、美術、碑文、宗教を主眼とした研究がなされてきたが、材料学についてはあまり触れられてこなかった。
そのため、意匠から石材について議論する場合、多くの未解決な事項があった。例えば、サンボー・プレイ・クック遺跡のある祠堂内部は砂岩表面が黒く変色しており、それは内部で護摩焚きの様な儀式を行なっていたため変色したと、数年前まである小規模な学会でも言われてきた。しかし、それは天井裏の迫出し屋根部分にも続いており、説明がつかなかった。私もその時点では、ただ不思議に思っていただけだった。だが、本書を読んでみると、それはマンガン酸化細菌による活動によってマンガン酸化物が沈着し、黒くなる現象であることが分かり、自身の中でスッキリと解決した。このように、他の専門分野から調査を行うと、新たな知見が開け、研究が大きく前進するのである。
本書は、全く異なった切り口でアンコール遺跡の解明に迫ったのであり、その成果は非常に大きい。

著者について
著者は、日本国政府アンコール遺跡救済チーム(以下、JSA)の団員として、1994年より現地調査を30回以上行い、また、調査した石材は10万個近くに達する。本来の専門は、岩石・鉱物・鉱床学であるが、JSAの活動をきっかけに文化財科学も専門とされている。

本書の特徴
本書の新たな見解は、大きな事として次の2点である。
1、 砂岩材・ラテライト材の帯磁率によりアンコール時代の遺跡の建造時期や建造順序をある程度推定できたこと。
2、遺跡の修復・保存にとって重要な事項である石材の劣化機構について解明できたこと。

本書の内容
1、帯磁率
砂岩の構成物の一つとして磁鉄鉱があり、堆積場所によって濃縮度に違いが生じる。アンコール遺跡の主要石材は、同じ鉱物組成および化学組成でありながら、石切り場によって帯磁率が異なる。そこから、アンコール時代において7つの石切り場が存在し、その組み合わせによって11の時期に分けることができる。ラテライトの場合は、赤鉄鉱および針鉄鉱によって5つの石切り場が存在していたことが明らかになった。その結果、ひとつの遺跡の増改築の過程を客観的に明らかにすることに成功した。
これは、バイヨンのように頻繁に拡張が行われた遺跡に大きな成果をもたらした。それに加え、同時代に建造された遺跡間における部位単位の建造時期の対比も可能となった。例えば、バイヨンの中央祠堂と同時期に、バンテアイ・クデイの中央祠堂が建造されていることが明らかになった。
また、従来の意匠論からバプーオンの空中参道は、バイヨン期末期以降に増築されたものであると言われてきたが、 帯磁率から遺跡の建造時とほぼ同じ時期に構築されたことが明らかとなった。

2、石材の劣化
アンコール・ワット十字回廊の柱材下部は、表面が剥離してすぼんだ形状となっている。これは、コウモリの糞による塩類風化である。糞に含まれるイオウやリンが雨水の毛細管現象により上昇し、蒸散すると石膏や各種リン酸塩鉱物として石材表面近くで析出する。その塩類による結晶圧が石材表面を膨張さ破壊していくのである。この種の塩類風化は、各遺跡に柱・壁。塔など様々ところで見られる。
また、砂岩中に含まれるカルシウム分が雨水に溶かされ、蒸発する際に方解石として石材表面近くで析出し、これが剥離を引き起こしている。これは、プノン・バケンの基壇に顕著に見られる。
さらに、バイヨン外回廊の柱のアプサラは溶けていスベスベになっている。観光客の目に付きやすい場所にあるためよく写真に撮られているが、これはタフォニ現象によるものである。

最後に
アンコール・ワットは、最大規模を誇り、また建築様式や精緻な彫刻からも完成度が高い遺跡として評価されてきた。それに加えて、本書では具体的な言及はされていないが、石材技術においてもその頂点であると私は感じた。
石材の形は、初期は正方形に近く、時代とともに薄く、扁平になる傾向がある。アンコール・ワットにおいては、正方形・長方形の両者の使用が認められる。さらに、中心部では非常に大きな石材が使われている。
また、砂岩・ラテライトの層理面方向について、バプーオンまでは意識されていなかったが、アンコール・ワットになると層理面方向と圧縮強度の関係を意識した石材の積み方がなされている。
さらに、石材の加工精度もアンコール・ワット、バイヨン初期まで水平目地が揃うように整層積され、角がしっかりと出ており、石材間の隙間もほとんど見られない。

本書の内容は、多くの事項が新鮮であり、非常にまとまった構成となっている。遺跡を科学的に知りたいと思う人にとっては有益な携行本であるこはまちがいない。

2012年2月26日日曜日

書評「アンコール遺跡」

「アンコール遺跡」
藤岡通夫 鈴木博高 著
三省堂
昭和18年6月30日発行



はじめに
本書は、当時、東京工業大学助教授であった建築史家の藤岡通夫(1908年~1988年)によって記されたもので、戦時下にアンコール遺跡を日本へ総合的に紹介したものとして評価される。また、本書の特徴は、藤岡による当時の意匠研究の紹介および、その当時の遺跡写真にある。まず、本書が書かれた背景を述べる。

時代背景
1940年8月の日本は仏印と軍事協定締結、9月より「北部仏印進駐」を開始、翌年7月には「南部仏印進駐」を行なった。日本は、軍隊だけでなく政治家・経済人・大学研究者や芸術家などの文化人を次々とフランス領インドシナ(以下、仏印)に送り込み、両者の「文化協力」政策を推進した。特に、外務省の外郭団体の(財)国際文化振興会を通じた活動は活発であった。

出版の背景
本書が出版される前、藤岡は1943年に『アンコール・ワット』も出版している。また1941年から1945年にかけて、日本ではアンコール遺跡に関する著作が次々に公刊されている。この時代、仏印への関心は、時世に沿った大変意味のあることであった。藤岡も自序の中で、「東亜共栄圏内に介在する芸術の宝庫を、少しでも多く紹介する事に役立つならば、幸それに過ぐるものはない。」と述べており、仏印は介入は軍事史だけでなく考古学史上でも重要であった。
しかし、これらアンコール遺跡に関するフランス語文献の邦訳は、仏印文化を理解するためにフランス人に頼らなければならかった。当時、アンコールに関する書籍は、英語・フランス語のものは数多く出版されていたが、日本において、この時代以前のアンコール遺跡に関する研究としては、建築学会で1910年に行われた学術講演会「祇園精舎図とアンコール・ワット」や、「東洋建築の研究」など伊東忠太によるものが大きな成果であり、その他には、1928年に岩生成一が、1933年に黒板勝美が、それぞれ、アンコール・ワットの墨書について論文を発表しているにすぎなかった。
その藤岡の踏査は、外務省南洋局、海軍省施設本部、日本学術振興会の援助により行われた熱帯地住居の調査の途次に行われたものであり、1942年2月に脱稿し、1943年6月に出版された。

本書の内容
1、
まず人種、歴史、宗教からクメール文化を概論している。その中で、藤岡が感じた当時の印象から「今日のカンボジア人は(中略)温順ではあるが全く無気力であって、往古あの大事業をなした民族の意気と精魂は、その片鱗さへも見ることが出来ない。」と述べている。その印象は、アンリ・ムオの時代から変わっていないようだ。歴史に関しては、その当時、漢文史料研究や、碑文研究が進み、王の登位や遷都など正確な年代が紹介されている。
2、
アンコール遺跡の総説では、遺跡の現状、構成要素、意匠など、建築学的なな紹介がなされている。この当時、フランス極東学院(以下、学院)による遺跡目録の作成、観光道路の整備がなされ、その全貌を窺うことできていたため、容易に各遺跡を訪れることができたのであった。この項の中で、藤特に意匠について論考しているが、この当時の研究を知る上で重要である。
特に藤岡は、プノン・バケンとバイヨンの建設年代の研究を紹介して、論様式論による年代判別の危険性を言及していると共に、ステルン及びレミュザの研究を高く評価している。また、藤岡は、日本の社寺建築の研究手法を当てはめて、アンコール寺院構成を各個別建築ごとに分解し、塔門、塔、祠堂、拝殿などからクメール様式の独自性を論述している。
また、構造においても、迫出し式アーチとバットレスとしての側廊の意味を評価している。藤岡は「廻廊に於ける独特の屋根形式は、全く構造上の要求から生じたものである。」とアンコール・ワットの中央部の事例をあげている。
意匠において、藤岡は、周辺諸国やインドなどと比較考察行い、チャンパとの相互性を認め、アユタヤの塔はクメールの影響下から発達したと述べている。では、そのクメール建築意匠はどうかというと、インドのヒンズー教の要素が伝えられ、クメール式に発達したと考えられるのが至当と考察している。
3、
次に、各論で個別の寺院について解説しており、その後には写真帳となっている。恐らく、そこで紹介されたものが、藤岡が実際に訪れた遺跡ではなかろうか。それは、アンコール・ワット、アンコール・トム、タ・ケオ、タ・プローム、バンテアイ・クディ、スラ・スラン、プリア・カーン、ネアック・ポアン、プレ・ループ、プノン・バケン、プノン・クロムである。
4、
そして、本書の最大の特徴であるアンコール遺跡の数々写真が、最後に納められている。各寺院ごとに、全体から細部に至るまで建築学の視点から均等に撮影されている。驚くべきこととして、それら写真が、そこにあった彫像や彫刻の本来の姿を教えてくれることである。遺跡自体は、現在の姿がそう変わっていないが、盗掘、保存の為の移動、戦時中の破壊によって、近代においても多くのものが失われてしまったことを伝えている。これら凛とした彫像たちは、一体どこへ行ってしまったのだろうか。藤岡の写真は、研究資料として重要であるが、一般の人々にとっても、遺跡への意識を高める上でも重要であろう。


最後に、本書の図面・写真は、アンコール建築・彫刻の研究者にとって、重宝するものであり、一読すべきものであると思う。


2012年2月15日水曜日

戦時下のアンコール関連書籍

戦時下、アンコール遺跡について出版された主な書籍・新聞は以下のものである。

『佛印風物誌』畠中敏郎著、1941年
『印度支那 フランスの政策とその発展』T.E.エンニス著、大岩誠訳、生活社、1941年
『アンコール詣で』ピエル・ロティ作、佐藤輝夫訳、白水社、1941年
『シャム、カムボヂャ、ラオス諸王国遍歴記』アンリ・ムオ著、大岩誠訳、改造社、1942年
『シバ神の四つの顔、アンコール遺跡を探る』P・J・ケ・シイ著、内山敏訳、南方出版社、1942年
『アンコオル遺跡』ヂョルヂュ・グロスリエ著、三宅一郎訳、新紀元社、1943年
『アンコール遺址群』アンリ・パルマンティエ著、永田逸郎、育生社弘道閣、1943年
『仏印文化概説』シルヴァン・レヴィ編、村松嘉津訳、興風館、1943年
『アンコール・ワット』藤岡通夫著、東亞建築選書、彰国社、1943年
『アンコール・ワットの彫刻』富田亀邱著、日進社、1943年
『アンコール・ワットの景観』富田正二著、立命館出版部、1943年
『アンコール・ワット』薄葉義治訳、湯川弘文社、1944年
『カンボヂャ紀行 クメエル芸術とアンコオル』ドラポルト著、三宅一郎訳、青磁社、1944年
『カムボヂア民俗誌 クメール族の慣習』グイ・ポレ、エヴリーヌ・マスペロ著、浅見篤共訳、生活社、1944



『朝日新聞』1941年8月8日~10日「アンコール・ワットの遺跡を訪ふ」

2012年2月12日日曜日

書評「アンコール遺跡を楽しむ」


アンコール遺跡を楽しむ [単行本]

波田野 直樹



内容紹介

アンコール・ワット、バイヨンなど80余のアンコール遺跡の歩き方・見所を写真200枚を用いて紹介した遺跡案内。自由に自分流に楽しむ人のためのガイドブック。



  • 単行本: 281ページ
  • 出版社: 連合出版 (2003/04)
  • ISBN-10: 4897721830
  • ISBN-13: 978-4897721835
  • 発売日: 2003/04
  • 商品の寸法: 21 x 15 x 2.6 cm 


書評
本書の帯には、「遺跡を歩く『私』の姿が見えてくる。」と書かれている。これは、本書が一般のハウ・ツー・ガイドブックではなく、タイトルにもあるように、アンコール遺跡を「遺跡」として楽しむ人のガイドブックであることを意味している。
著者は、遺跡の専門家でもなければ、旅行マニアでもない。世の中の「美しいもの」を探求し、その条件を満たすものがアンコールであることを発見、それをさらに深化させている。「爽快なスコール、巨大な建築物、その光と影、その精緻な細部。他にふたつとないオリジナルな存在」から、「感じた疑問を文献を読むことで解決していく過程はこれまで経験したことがないくらいスリリング」であると述べている。つまり、まず本物の「美しいもの」に浸り、それを理解する過程から知識が付随してきたのだろう。
また、「そしてアンコールの外には、いまだに極め付きの悪路と過酷な旅が待ち受けています。それらもまた、ぞっとするくらい誘惑的なカンボジアの魅力の源泉です。」とあり、観光用に整備されていない環境の中、その目的のために突き進み、自分で発見する喜びも遺跡探索の魅力だと伝えている。

本書では、各遺跡ごとに著者の解説がなされている。この著者の視点には、鋭いものがある。往時の姿の想像を前提に、遺跡の遠景から彫刻の細部までを廻り、その美的要素を宗教的・実利的に捉えている。アンコール・ワットの環濠を水利網との関連で捉え、そこから感じた「美」。また、神王思想による宗教都市及び国家鎮護寺院として捉え、 そこから感じたアンコール・ワット第一回廊のレリーフの「美」。それら現地で多大な時間を過ごさなければ感じ獲れない魅力が綴られている。
しかしながら、本書の読みどころはマイナー遺跡ハンティングである。誰も行かないような遺跡へ、腰まで泥水に浸りながら探索しあて、「他人には邪魔されない、ひとり占めできる」、その満足感にひたることができる。また、マイナー遺跡には、解説・評論がないため、「自分のオリジナルな感性」を受け入れることができる。その経験が綴られたエッセイが、読者と著者とが本当に対面できる項目であり、アンコール遺跡の魅力を本心で語っている。

アンコールを訪れる人の目的は様々で、私の場合、建築学を主軸としている。また、私のマイナー遺跡の楽しみ方は、冒険的な要素と、そこの静寂に包まれながら「荒城の月」のような感傷に浸ることである。そのように各個人の趣向があるだろう。しかし、本書の内容は総合的な知識を背景に解説されており、読者一般的に受け入れられるだろう。



私は、アンコール遺跡を訪れたことがある人がこの本を読むことをお薦めする。読んでいくうちに、「あそこは、そうだったな。」と思い出し、また、写真と合わせて解説を読むと、自分とは違った視点の魅力に気づくだろう。なぜなら、本書は、その遺跡のリアリティーを、その場から直に伝えているものだからだ。




2012年2月5日日曜日

書評「アンコール・王たちの物語」

アンコール・王たちの物語 ~碑文・発掘成果から読み解く(NHKブックス)
石澤 良昭(著)[単行本(ソフトカバー)]

内容紹介

巨大伽藍、広大な都城をもつ遺跡群で知られるアンコール王朝。この神秘的都市を造営した諸王は何を考え、どのように生きたのか。長年に亙る碑文研究を基に諸王の事績を立体的に描く。王たちの野望とアンコール王朝興亡史。

登録情報
  • 単行本(ソフトカバー): 284ページ
  • 出版社: NHK出版 (2005/7/30)
  • ISBN-10: 4140910348
  • ISBN-13: 978-4140910344
  • 発売日: 2005/7/30
  • 商品の寸法: 18 x 12.8 x 1.6 cm 

書評

カンボジアを観光する人は、ガイドブックからある程度の知識を得ている。だが、その説明を読んでも、「アンコール・ワットが巨大な石造寺院である」こと以上に、その実態を掴めないでいる人が多いのではないだろうか。
その理由は、私の場合、アンコール文明の歴史・文化・宗教・社会経済・王権など、遺跡をより理解するための知識を持っていなかったからである。また、ガイドブックに単発で記載されている王の名前や、寺院の物理的な概要を読んでも、「だから、何なのだ?」と思い、残念ながら自信の探究心を満たすには至らない。

だが、本書を精読することにより、明快な歴史の通り道が開け、アンコール・ワットを含む各遺跡を、当時の社会感から位置付けることができる。そして、これまでの歴史知識の空白を埋めてくれて、気持ちをすっきりとさせてくる。アンコール文明を深く知ろうとする人にはうってつけの内容である。

また、著者の大書「古代カンボジア史研究」は専門的で難解な部分も多かった。一方、本書では、読者の一般的な疑問の視点に立って、平易な文章による各王のストーリーがあり、また、カンボジアの通史としても順序だてられている。

カンボジアには、紀元前から選択的に採り入れらたインド的枠組みの文化があり、クメール人たちはヒンドゥー教の神々を敬い、そのことがアンコールの大伽藍につながった。往時の人たちの約600年にわたる知恵と、その時代の最先端の科学技術が盛り込まれていた。その大建造物を造ったのは王であり、神仏への篤信と、国家鎮護から造営されたのであった。
王位継承は、争奪戦によって行われた。そのため、王の系譜に載るためには、政治権力と宗教的権威の宗務者家系の存在が、必要であった。彼らが王の即位式を執り行うことにより、王位継承を正当化するのと同時に、王自身を現人神に昇華させる役割を果たしていた。このようにインドから来た王権の枠組みの中で、その神秘性を高める祭儀の場所として、寺院が建立されていった。
また、インドから到来した思想はカンボジア的に咀嚼され、それが王国の加護を願った宗教的な意味合いをもって、大伽藍の装飾に一部になった。

これらの造営の背景を知ることができるのは、著者による碑文研究および近年の発掘の成果である。そして、本書は、古クメール語から解読されたメッセージを読者に伝えてくれるものである。

2012年1月29日日曜日

書評「アンコール・ワットへの道」


アンコール・ワットへの道 (楽学ブックス) (楽学ブックス―海外) [単行本]
石澤良昭(著)、内山澄夫(写真) 


内容紹介

アンコール・ワットおよびアンコール・トムその他の代表的な遺跡の解説書。豊富な写真で総合的に説明。


登録情報

  • 単行本: 140ページ
  • 出版社: ジェイティビィパブリッシング (2009/10/9)
  • 言語 日本語
  • ISBN-10: 4533076777
  • ISBN-13: 978-4533076770
  • 発売日: 2009/10/9
  • 商品の寸法: 20.8 x 14.8 x 1.2 cm

書評
アンコール・ワットの魅力をご存知だろうか。この本を旅行の前に読めば、すぐにでも、現地へ行きたくなる衝動に駆られるだろう。
アンコール遺跡研究の日本の第一人者である石澤良昭先生による解説は、誰もが理解できるような平滑な文章でありながら、その魅力を取り零すことなく、伝えている。初めてアンコールの歴史に触れる人でも、これを読み切れば、アンコール通になれるかもしれない。ただ、ある程度の歴史・地理・彫刻・建築・構造についての知識があった方が、より理解できるだろう。(本当は、知識よりも、その考え方を知っていることが重要。)
また写真についても、旅行者向けのものだけでなく、学術的な考察向けにも撮られており、専門的な内容も容易に理解をすることができる。特に、アンコール・ワット第一回廊の場面解説は、それぞれの部位ごとに細かく物語が説明されており、さらに対項の写真と対比することができる。これを持って、現地を歩けば、物語の面白さだけでなく、その躍動的な描写から当時のクメール人の美術意識の高さと、寺院に対する思い入れを感じることができるだろう。この様な折り込み写真は、他の書籍にはない。
本の内容においても、アンコール・ワットの概説をするのみでなく、その時代の政治経済・宗教・日常生活からアンコール朝の実態とその王の存在について、ポイントをついて解説されている。その背景を知ることにより、アンコール文明の数百年の結晶であることに気付かされ、即座にアンコール・ワットの建造の偉業を感じることができるだろう。
また、建築分野の解説では、図を用いて力学的なアプローチがなされている。例えば、回廊の迫り出しアーチや、開口部のせん断破壊に対する工夫および構造材の意匠的利用について、その技術的な手法を知ることできる。
さらに、木造軸組工法の石造への応用については、深く興味をそそられる事柄である。
最後に、この本の素晴らしい点は、遺跡と人々とのつながりについても記載していることで、それにより、生きた遺跡としてのアンコール・ワットを知ることできる。
長々と書いたが、この本を旅行前の第一に読むべき書籍として挙げた理由として、
「複数の専門書からポイントのみ拾い上げており、また、読者が惹きつけられるようなストーリー展開と写真構成となっている。」
ので、とっても判りやすいと思う。

2012年1月23日月曜日

日本とカンボジアとの関係

日本とカンボジアとの関係


日本統治前後のカンボジア

日・仏印「文化協力」
フランス領インドシナ
タイ・フランス領インドシナ紛争
東京条約
松岡・アンリ協定
明号作戦
日本の戦争賠償と戦後補償
カンボジアに対する無償経済協力供与完了について
論文「第二次世界大戦期の日本と仏領インドシナの「文化協力」前編」
論文「第二次世界大戦期の日本と仏領インドシナの「文化協力」後編」


総合史
日本・カンボジア関係略史
カンボジア主要年表


修復・保存
論文「アンコール遺跡の考古学史にみる復原の思想1